京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

『グリーンブック』短評

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2019年3月7日放送分
映画『グリーンブック』短評のDJ's カット版です。

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1962年。ニューヨークの高級クラブ、コパカバーナで用心棒として働くイタリア系のトニー・リップ。教養も品もないものの、機転が利く言葉巧みな男で、親族から頼りにされていました。コパカバーナが改装に入るためしばらく仕事が無くなると知ったトニーは、家族を養うためにも、アメリカ南部でコンサート・ツアーを実施するという黒人ジャズ・ピアニストのドクター・シャーリーの運転手の座に滑り込みます。なぜドクター・シャーリーは、人種差別というより人種隔離と言うべき状況の南部へ向かうのか。この凸凹コンビは無事にツアーを終えられるのか。

 
本作は実話をベースにしていて、脚本には、トニー・リップの息子ニック・バレロンガがトップにクレジットされています。監督は、『メリーに首ったけ』などのコメディーで知られるファレリー兄弟の兄ピーター。イタリア系のトニー・リップ・バレロンガに扮するのは、ヴィゴ・モーテンセン。そして、ドクター・シャーリーを『ムーンライト』で昨年のアカデミー助演男優賞を獲得し、この春日本公開の話題作『スパイダーマン:スパイダーバース』や『アリータ:バトル・エンジェル』にも出演と、各所から引っ張りだこのマハーシャラ・アリが演じています。
先日のアカデミー賞では、作品賞、脚本賞マハーシャラ・アリ助演男優賞とメインどころの3部門を獲得して決定的な評価を得る一方、プロモーション活動中のヴィゴ・モーテンセンの失言や、ドクター・シャーリーの遺族が「事実が誇張されている」という趣旨の発言もあり、本国での観客動員が思った以上に伸びていないのも事実です。
 
それでは、制限時間3分の映画短評、そろそろいってみよう!

アカデミー作品賞ですよ。脚本賞ですよ。もうそれだけで観に行く価値があるっていうか、観に行くべきだし、こんな評は要らないんじゃないかという気もしてきますが、もうひとつメインどころの賞でこの作品が何を獲ったかと言えば、助演男優賞ですね。これはバディームービーなんで、「どっちが主演っていうか、どっちも主演じゃないの?」と映画を観る前は思っていました。しかし、ドクター・シャーリーを演じるマハーシャラ・アリはあくまで助演です。主役はトニー・リップ。脚本は息子が父から聞いた話をベースにしているし、お話もトニーやそのイタリア系ファミリーからの視点で物語られる。僕はそこにこの映画の面白さと、アカデミー賞獲得後に出てきた批判の源泉、その両方があると思います。

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黒人映画監督の雄スパイク・リーが、こちらも超面白そうな『ブラック・クランズマン』という作品で脚色賞を得た際のスピーチで言ったように、アフリカから黒人が奴隷としてアメリカ・バージニア州に強制連行されて400年の今年です。さらに、公民権運動の頃から半世紀を経た今も、差別は雑草や黴のように根深く残っていて、時折社会の表にその醜い姿をさらすという現実があるわけです。
 
舞台は半世紀以上前、特に南部では、人種差別どころか人種隔離が公然と行われていたわけです。ただ、このあたりの歴史的事実は、それこそタイトルの黒人用旅行ガイド「グリーンブック」の存在と同様、今では当の黒人でも若者なんかはよく知らないってこともあるでしょう。ましてや、僕ら日本ではこのあたりの事情はわからない。以上のことを考え合わせると、物語の視点は、ドクター・シャーリーよりもトニー・リップである方が映画的に盛り上がるんです。どういうことか。

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トニーは、無知で粗暴、品のない言動をする男であるがゆえに、僕たち観客の代わりに、当時のディープ・サウスの世相・実情に自然と分け入っていく。「俺にはややこしいことはよくわかんねえけど、これはいくらなんでも仁義にもとるってもんじゃねえんですかい。さすがにうちの旦那が気の毒ですぜ」ってな、寅さん的調子で、トニー・リップがトラブルの解決に乗り出すたび、彼なりに学んでいくことになる。社会の理不尽、ままならなさを身をもって知るんですね。そして、トニーが言わばボケの役割をすることで、ファレリー監督お得意のコミカルな演出をしやすくなっています。
 
たとえば、黒人食文化のひとつフライド・チキンの食べ方をトニーがドクターに教えるところ。あそこも、ちょいちょいトニーは失礼だし下品。でも、そこにドクがいい塩梅で絡むのは、ひとえにフライド・チキンの美味しさもあるっていう、あのあたりはファレリー監督の作家性のなせるわざじゃないでしょうか。

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トニー・リップのリップは、口が上手いから付けられたあだ名です。僕が訳すなら口車トニーです。ところが、時折、堪忍袋の緒が切れると、ついつい手が出てしまう。そこは、ドクター・シャーリーに暴力では尊厳の問題は解決できないと諭されるし、愛する人への手紙の書き方も教わります。いずれも、ニンマリさせられたり、ゲラゲラ笑わされますね。
 
ただ、トニー視点で映画がより面白くなった副作用として、批判の声があるのも事実です。これは、差別をするマジョリティー、つまりは白人が心を入れ替えるのに黒人が利用されたって話なんだと。「俺たち白人もちゃんと歩み寄って、差別を受ける人たちの辛さもわかっていますよ」という、意識高い系の白人を気持ちよくさせる映画なんだと。この批判は僕にもわからなくはないです。
 
がしかし、アメリカのこの差別構造のトップは、WASP、ホワイト・アングロサクソンプロテスタントであって、トニーはホワイトだけど、ラテンで、カトリックです。下手すりゃ、WASPから蔑まれる立場でもあるわけですよ。その意味では、批判のすべては当たらないのではないかと思っています。
 
僕の好きなところを挙げると、かつてレイシストだったトニーが、ツアーを終えて帰宅後、親族のひとりが黒人差別発言を軽くした時にピシャリと「今の発言はダメだ」と言ってのけるところ。そして、詳しくは言わないけれど、黒人でありながら黒人社会に馴染めず、ある理由から人を寄せつけずに孤独な暮らしをしていたドクのツアー後の変化。たとえば家のアジア系使用人に対して見せる気遣いであったり、クリスマス・イブに取る行動だったりは、彼の心がやわらかくしなやかなものになったことを端的に示していました。

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こうしたエピソードで観客に伝わるのは、人にはそれぞれの出自と育ってきた環境があって、世の中はとてもややこしく複雑だけれど、互いに尊厳を保ったまま誰かにやさしく接する道はあるはずだというメッセージでしょう。
 
様々な土地の風景・そこに住む人との交流を経て、主人公たちが変化していくロード・ムービーの要素と、教養のある人とそうでない人。金持ちと庶民。黒人とイタリア系。異なるバックグラウンドを持つふたりが共に刺激しあって人としての深みを増すバディー・ムービーの要素を併せ持った、オーソドックスだけれど、僕たち日本の観客にとっても学びと笑いに満ちた良質な一本を劇場で見逃すなんてのは、実にもったいないですよ〜

さ〜て、次回、2019年3月14日(木)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『スパイダーマン:スパイダーバース』です。日本でも昨年あたりから期待が高まっていたこの作品。アカデミー賞では長編アニメーション賞を難なく獲得しましたね。既に鑑賞している僕の友人たちからも、絶賛の声が聞こえてきます。あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく!

映画『翔んで埼玉』短評

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2019年2月28日放送分
映画『翔んで埼玉』短評のDJ's カット版です。

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あくまで伝説としての話です。かつて東京都民からひどい迫害を受けていた埼玉県民。東京へ行くには通行手形を必要とし、潜伏しようものなら強制送還となる身分でした。東京都知事のひとり息子で、名門高校白鵬堂学院の生徒会長を務める壇ノ浦百美は、アメリカ帰りで容姿端麗な転校生の麻実麗(あさみれい)と出会います。当初こそ、校内にその美しさを振りまく麻実にライバル心を燃やした百美でしたが、あることをきっかけにして、彼に恋心を抱き、やがては互いに惹かれ合っていきます。ところが、麻実が埼玉県出身であることが発覚。ふたりの恋には、様々な試練が立ちはだかります。地位向上を目指し、通行手形の廃止を目論む埼玉県民。同じく虐げられながらも埼玉には負けられまいとする千葉県民。高みの見物を決め込む神奈川県民。さらにはとばっちりを受けるばかりの周辺の県を巻き込み、関東には大騒動が巻き起こります。

翔んで埼玉 テルマエ・ロマエ

原作は『パタリロ!』で知られる魔夜峰央が82年、実際に埼玉に住んでいた頃に発表した未完の同名ギャグ漫画です。監督は、『のだめカンタービレ』などフジテレビのドラマ演出から出発し、『テルマエ・ロマエ』のヒットでも知られる武内英樹。脚本は、やはりフジテレビのドラマ『電車男』で地上波デビューを果たし、映画はおよそ10年ぶりの徳永友一。二階堂ふみ東京都知事の息子、壇ノ浦百美を演じる他、埼玉のレジスタンス活動を行う麻実麗にはGACKTが扮します。他に、伊勢谷友介ブラザートム麻生久美子麿赤兒中尾彬京本政樹などが出演しています。
 
先週の公開から最も観客を集めているのは埼玉県ですが、全国レベルで見ても、先週の動員ランキング堂々の1位。ロケットスタートでぶっ翔んでいるこの作品を僕がどう観たのか。
 
それでは、制限時間3分の映画短評、そろそろいってみよう!

未完の小さな作品であったオリジナルを映画化するにあたり、キャスティングからひとつひとつの小道具まで潤沢な予算を投じ、脚本も複雑に練り込み、キャッチコピーを借りるなら、大真面目に徹底して「邦画史上最大の茶番」をやり、ごく狭い地域のトピックを扱いながら、その実きわめてグローバルな、普遍的な寓話に仕立て上げた、今年屈指のコメディーだろうと僕は受け止めています。
 
だいたい実年齢40代半ばのGACKTが高校生で、二階堂ふみが男子ですよ。普通に考えれば、無茶苦茶です。しかも、学校は制服も何もあったもんじゃない。ベルサイユのばら的な、そして要はパタリロ的な美意識を再現した衣装に身を包んでいる。GACKTがかつて属していた、そして劇中にチラリ登場するYOSHIKIのビジュアル系バンドの耽美的な世界観の源流とも言えるものですね。そして、埼玉の地位向上を狙って暗躍するレジスタンスである男と東京都知事の息子がキスをするボーイズラブでもある。なんだけど、僕らはあまりに有名な現実のふたりを知っているから、これが同性愛ではなく異性愛であることも知ってる。この恋愛は埼玉と東京、異性愛と同性愛、そしてフィクションと現実が越境した産物であるという、むちゃくちゃ複雑なものなわけです。
 
でも、これだけだと、いかにも漫画な、大量生産されている漫画実写映画化と同じレベルに留まっていたと思うんです。この作品に僕がうならされたのは、メタ的な構造を幾重にも盛り込んでお話を重層化していることです。

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今話したこのぶっ翔んだ漫画的世界は、すべて現代日本の都市伝説であると括弧で括ってあるんですね。その伝説が語られるのが、埼玉県民がこよなく愛するFMラジオ局NACK5であるという設定。つまり、DJが喋っているんだと。その放送を車の中で聞いているのは、埼玉県民の夫婦と結婚を控えたひとり娘。「なんでNACK5聴いてんのよ。東京FMに変えてよ」なんて言っちゃう。つまり、映画はこのリアルと都市伝説を行ったり来たりするんです。「僕らの世界に似た世界の話」を「僕らの世界で聞いている人がいるって話」を、僕らは観ているという構図ですね。さらに、僕はびっくりしたのは、最後の方でNACK5のスタジオが出てくるんだけど、そのDJとディレクターの姿が映った時です。これは今明かしませんが、「どんだけこねくり回すんや!」って僕は声に出しそうになりました。
 
その狙いは何か。ふたつあると思います。僕ら観客に没入させない効果がひとつあります。「これはフィクションですよ〜 都市伝説ですよ〜」って言い聞かせるわけですから。でも、それを聞いている家族はリアル埼玉県民で、アイデンティティーをリアルにこじらせている。この入れ子構造が、現実とのちょうどいい距離感をもたらす。この距離感があるから、笑えるし、笑いながら考える余白を生む。じゃあ、何を考えるって、現実はどうだろうかってことですね。ここまで極端なことはもちろんないけど、あれ、ひょっとしたら、これまがいのことは本当にあるんじゃないかと考えてしまう。この寓話的な効果を生み出すのが、狙いのふたつめでしょう。これは映画版の功績です。

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通行手形はパスポートやビザに置き換えてください。世界には特定の国の人にそれを発行しない現実がありますよね。この映画では千葉県が東京にうまく擦り寄っていく政治的な戦略に出ていますが、これは日本とアメリカの関係に置き換えられないでしょうか。明治以降からほんの最近まで、いや、なんなら未だに、僕らは韓国や中国の人たちを意識的にせよ無意識的にせよ見下していませんでしたか? アジアナンバーワンだと思いながら、アジアをまるで見ていなかったのは、この映画の中の東京のエリートと同じではないだろうか。
 
僕は今わざと挑戦的に日本を例に挙げましたけど、同じようなことは世界中にあります。僕の生まれたイタリアにもあります。つまり、地域や国のアイデンティティーやプライドは、その周辺をないがしろにして育つと醜いことになってしまうという教訓を、すべて笑いという糖衣でくるんで飲みやすく摂取させてくれるのが、この映画だと思うんです。
 
原作は未完なんで、映画をどう終わらせるかも見どころになるわけですが、埼玉の逆襲とも言える内容になっていましたね。でも、そのどれもが、ショッピングモール、コンビニ、ファストファッション、安いアイスなど、要するに画一的で均一的な、つまりは埼玉らしさのないものだっていう皮肉を見せたのも僕には面白かった。個性がないから生まれたものが、今や日本全体に浸透しているという現実の深みのなさも見せつけられてしまう。
 
なんて真面目に語ってしまいましたが、こうしたことを笑いの畳み掛けで用意周到に描いてみせた本作。僕はひれ伏しました。

ラジオでは埼玉県蕨(わらび)市出身、星野源の『ばらばら』をオンエアしましたが、映画主題歌はこちらです。またよくできてる! はなわディスコグラフィーでも抜きん出た傑作かも。

 

小ネタに関しては、もう語りだしたらキリがないので触れませんでした。ドライヤー銃、草加せんべいの踏み絵、埼玉県民ほいほい、千葉の海女が使うさざえのトランシーバー、さいたマラリアなどなど。こればかりは実際に観て笑ってもらうしかありません。

さ〜て、次回、2019年3月7日(木)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『グリーンブック』です。ちなみに、来週は火水木と休暇を取らせてもらうんですが、映画評に関しては事前収録でちゃんとやりますよ。しかし、これはアカデミー作品賞も獲ったしねぇ。僕はもう観てますけど、「いい話」です。以上。ってわけにもいかないか。映画ファンならずとも、これは観ておいていただきたいって作品です。あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく!

『女王陛下のお気に入り』短評

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2019年2月21日放送分
映画『女王陛下のお気に入り』短評のDJ's カット版です。

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18世紀初頭。アン女王が統治するイングランドはフランスと戦争中。アンの幼馴染である側近のサラは、身体が弱く政治的手腕に乏しい女王を意のままに操り、絶大な権力を握っていました。たとえば… 
 
当時のイングランド議会では、増税してでも戦争を進めるべきだとする与党と、一日も早く和平を推進するべきとする野党で、意見が対立していたのですが、夫のモールバラ公爵がイングランド軍を率いているサラは与党に肩入れ。アン女王はサラに言われるがままに戦争継続を命じるのでした。
 
そんな折、没落した貴族の娘で、サラの従兄弟に当たるアビゲイルが宮廷にやって来ます。アビゲイルはうまくサラに取り入って召使いからキャリアをスタートさせつつ、やがてはアン女王の侍女へと昇進。アビゲイル支配下においたつもりのサラでしたが、アビゲイルは再び貴族の座に返り咲き、さらには虎視眈々とサラの権力をも奪おうと狙っていたのでした。さて、アン女王のお気に入りとして生き残るのはどちらなのか。

ロブスター(字幕版) 籠の中の乙女 (字幕版) 

もちろん実在した王室や貴族の秘話を描いた歴史もの。もともとは脚本家のデボラ・デイヴィスが『Balance of Power』、つまり「権力のバランス」というタイトルで書いていたプロットが10年前にラジオドラマになり、そして今回映画化という流れです。監督として白羽の矢が立ったのは、ギリシャ出身ののヨルゴス・ランティモス、45歳。『籠の中の乙女』『ロブスター』『聖なる鹿殺し』など、特に日本では映画通の間では知られた人です。カンヌでは主要な賞を既に2度獲得している他、アカデミーにも何度かノミネートしていました。人間の欲望や社会の常識をグロテスクなまでに極端に描き、どす黒い笑いで風刺してみせるという作家性がある人です。
 
アン女王にオリヴィア・コールマン、側近のサラにレイチェル・ワイズ、その従兄弟で貴族返り咲きを狙うアビゲイルエマ・ストーンが抜擢されました。
 
ランティモス作品としては、これまでで一番規模の大きなフォックス・サーチライト・ピクチャーズが配給をしています。要は20世紀フォックスの子会社なんですけど、インディー色の強い質の高いものを扱うレーベルみたいなもので、最近だと『バードマン』『スリー・ビルボード』『シェイプ・オブ・ウォーター』『犬ケ島』、これすべてサーチライトです。案の定、今作は昨年のヴェネツィア映画祭で審査員大賞と女優賞を獲得。アカデミーでは、作品賞、監督賞、主演・助演女優賞脚本賞など、今回最多の10ノミネートとなっています。
 
それでは、制限時間3分の映画短評、そろそろいってみよう!

あらすじから多くの人が思い浮かべるように、そして公式ホームページでも謳われている通り、これは「英国版大奥」です。確かにその側面はある。でも、ポイントはそのトップが「殿」ではなくて「女王」であることですね。痛快なのは、トップが女で、それを影で操るのも女。議会の政治家たち、男どもがその支配下にあるってことです。そこが大奥とは違う。ただ、表面上はもちろん男社会ですから、あくまでその裏で陰湿極まりない駆け引きが行われるのが見どころとなります。
 
オープニングを思い出してみましょう。アビゲイルが宮殿にやって来る乗合馬車のシーンから、早速監督のスタンスが表明されます。一度綺麗な描写をしておいてから、すかさず、乗り合わせた面々の下劣な本性を暴いてみせる。人間の表裏、美醜をとっとと見せちゃう導入です。しかも、アビゲイルは宮殿脇で馬車から突き落とされて、糞尿まみれの泥の中へ。僕ら観客は否が応でも、アビゲイルの味方をしてしまうんですが、これがそう簡単な話ではないミスリードの類だとすぐわかります。徐々にアビゲイルの思惑・欲望・野心が顕になってくると、だんだん僕らはむず痒く居心地が悪くなる。すると今度は、サラも不憫に思えてくるし、アン女王だってなんなら時には… こんな調子なんで、僕らは権力と欲望のトライアングルの中で身の毛のよだつ思いをし続けるわけです。
 
てなことを言ってますが、これ、よりによって国は戦争中なんです。ところがどうでしょう? 戦闘シーンは出てこないばかりか、カメラは宮殿とその周囲から外へは出ません。つまり、この宮殿に巣食う国家の支配者たちは、民のことなど文字通り目もくれていないわけです。
 
ついでに技術的な話をちらっとすると、今回、宮中のシーンで魚眼に近い広角レンズが使われてました。劇映画では珍しい手法なんで、誰もが気づきますよね。まっすぐ廊下が歪んでみえるわけだし。これはもちろん監督の世界観そのものです。それ以外は、極めてナチュラルな撮影法だけに、際立ちますね。病と不摂生がたたって精神状態は不安定で身体は痛風にやられ太りまくって動けなくなっているアン女王ですが、彼女が神輿に乗ったり、巨大な車椅子で移動する様子は、そのまま撮影するだけで権力の中枢の非人間性が浮かび上がります。

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しかし、なぜ今こうした時代ものを撮るのか。意義は少なくともふたつあるとみてます。
 
その1。ミートゥーやタイムズ・アップに端を発するここ数年の女性のエンパワーメントを巡る動きは踏まえているでしょう。たとえば性的にいいよってくる獣同然の男たちは、彼女たちに完全に手玉に取られていました。ただ、それで終わらないのがランティモス監督です。だって、サラやアビゲイルが良心的に描かれているかと言えば、むしろその逆だし、それで彼女たちが幸せなのかと言えば…ってことですよ。
 
その2。権力や富がいかに人を堕落させるかというメッセージでしょう。資本主義がグローバル社会の中で暴走・肥大化した挙げ句、世界中で格差が深刻化していて、今現在、世界の富の8割が、1%の富裕層に集中しているという異常事態が進行しています。政治家たちは世界中で排他的・独善的になり、民のことなど考えていないのではないかという問いかけですね。

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この2点を考え合わせると、僕たちは遠い時代の出来事だと傍観していられないわけです。子どもを持てなかったアン女王が、その代わりにかわいがっている17匹のウサギたち。権力闘争の小道具として、うわべだけかわいがられたかと思えば、足蹴にもされてしまういたいけな動物たちです。ラストショットにも登場しますが、あれは僕たち観客の姿が映り込んでいるのかもしれません。
 
いやはや、笑うに笑えない。僕らの笑みを引きつらせる、強烈なインパクトで人間と社会の本質をえぐる1本でした。

 ラストカットと確か重なって鳴り始めたと記憶しているのが、この主題歌でした。Elton Johnキャリア最初期のものですが、ピアノではなくチェンバロを使っているのが、映画にマッチしていました。チェンバロはピアノが生まれる前の楽器だから物語の時台とも合うし、歌詞も登場人物たちの心情に重なるところがあります。

さ〜て、次回、2019年2月28日(木)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『翔んで埼玉』です。番組スタッフとは、もし関西を舞台とするならどうなるかしら、なんて不埒な話題で盛り上がってしまいました。あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく!

『ファースト・マン』短評

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2019年2月14日放送分
映画『ファースト・マン』短評のDJ's カット版です。

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「これはひとりの人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」。1969年、初めて月に降り立った人間ニール・アームストロングの言葉ですね。この映画は、1961年、彼が宇宙飛行士になる前、空軍のテスト・パイロットだった頃からの8年間を描いています。ある日、テスト飛行中に高度を上げすぎて大気圏を突破してしまったニール。命からがら機体を下げ、無事に地上へ戻りますが、その際に目にした束の間の宇宙。耳にした静寂は美しくも臨死体験にも似た、忘れられないものとなりました。一方、私生活では妻との間に娘と息子がいたんですが、まだ幼い娘カレンは悪性の腫瘍に苦しみ、看病もむなしく亡くなります。悲しみにくれながらも、感情を表には出さず、現実から逃れるようにして、彼は宇宙飛行士に応募。NASAに所属して、家族とともにヒューストンへ引っ越し、過酷な訓練に身を投じることになります。

ラ・ラ・ランド(字幕版)

主演と監督は、ライアン・ゴズリングデイミアン・チャゼルの『ラ・ラ・ランド』コンビ。チャゼルは音楽ものから離れたばかりか、脚本も自分のペンによるものではなく、純粋に監督としての演出力が問われる作品となりました。脚本はジョシュ・シンガー。『スポットライト 世紀のスクープ』や『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』など、実在の事件の裏を丁寧に描く能力を買われての抜擢でしょう。7年前に亡くなったニール・アームストロングは自伝を書かなかったのですが、唯一の伝記として本人も認めたジェームズ・R・ハンセン『ファーストマン:ニール・アームストロングの人生』(河出文庫)を原作としています。

スポットライト 世紀のスクープ (字幕版) ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書 (字幕版)

映画化の構想は、本人が存命中の2003年からあったようで、そのときにはクリント・イーストウッドがワーナーと一緒に権利を押さえていましたが実現せず、ユニバーサルが宙に浮いたその権利を取り付け、製作総指揮にスティーヴン・スピルバーグを迎え、2015年から製作が動き出したという経緯があります。批評家筋の評価は軒並み高いんですが、アカデミー賞では主要部門は逃していて、録音、音響編集、視覚効果、美術という技術的な4部門にノミネートしています。
 
それでは、映画界の風雲児チャゼル好きの僕がどう観たのか。制限時間3分の映画短評、そろそろいってみよう!

デイミアン・チャゼル作品は、『ラ・ラ・ランド』も、『セッション』も、共通点がありました。それぞれきっかけは別として、何か夢を持って、それを実現しようと奮闘、格闘、葛藤する男の話。月に行くという夢は、50年前にあって、究極にして、まさにルナティック、つまり狂気じみた夢でもありました。その意味で、これはまさにチャゼル的命題です。『セッション』のような鬼教官は出てこないけど、ストイックな訓練と、度重なる技術的な困難。そして、仲間たちが犠牲となる様子は似ている面もある。こじつけるわけじゃないけど、カメラが執拗なまでに主人公を追いかけ、時には追い詰めるようなサディスティックとも言えるアングルや画面配置は『セッション』に近いです。
 
映画を観て、拍子抜けした人もいるでしょう。全然ヒロイックな描き方じゃないから。いくら世間や時の権力者がヒーロー扱いしようと、それをとにかく嫌ったと言われるニールです。この映画が強調するのは、ミッションの冷徹な描写と、彼のごく私的な想い、プライベートな側面です。彼は常に感情をコントロールしていて、何があっても平静を装う。映画も表面上は静かに淡々と進みますね。でも、だからこそ、たとえばプロジェクトが犠牲者を出した時にそっとカメラが捉える動揺を示すアクションが活きてきます。
 
とにもかくにも、月へ行くのは大変です。毎年『スター・ウォーズ』の新作を見せられていた僕らがいかに麻痺していたことか。コントロールのきかない計器類、ハンドル。スマホ以下の技術しかない、アナログな機械。圧がかかってミシミシ音を立てるロケット。恐怖の臨場感をこれでもかと僕らも追体験することになります。

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話題となっている、16ミリ・35ミリフィルムでの撮影ですが、これは当時の飛行士たちが、劇中にもあるように16ミリカメラで記録映像を撮っていたということもありますけど、チャゼルの思惑はこういうことでしょう。これまで未来の出来事やSFとしていつも神秘的にツルッと描かれてきた宇宙飛行を、無謀かつ大それたもの、つまり過去の異様な現実として振り返るために、映画技術的には古いとされる50年前のメディア、フィルムのザラツキでアナログ感を強調しようとした。逆に、月面では最新鋭のIMAX70mmカメラで撮影することで、これ以上ない2010年代最高の画質にした。それは、今なお人間にとって月面は未知の世界であり、この映画のカタルシスであり、古臭くない、ある種あの目線は時代を超越したものとして示したかったからじゃないでしょうか。
 
ソ連との宇宙開発競争で国家の威信をかけたプロジェクト。天文学的な予算を税金から割くが故に飛び交う批判。周囲の喧騒が激しくなればなるほど、彼は黙り込みます。実際、この手の映画にしてはセリフが少ないです。彼は国なんて背負ってないんですね。またひとり息子が生まれても、それはそれで嬉しくとも、決して死んだ娘の代わりになるわけではない。彼女への追憶が、辛い時に何度も蘇る。でも、それはどうしようもないことですよね。忘れようにも忘れられない。頭の中、まるであの狭いコクピットのようところに、その想いは閉じ込められている。それが彼を月へと駆り立てる。もはや妻にも手の届かないところへと彼はひとり向かってしまう。

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アメリカでは保守系の国会議員が、「どうして星条旗を月に立てるシーンがないんだ」と不満を顕にしたそうですが、うるせーよって話ですよ。飛行士も人間であって、彼の抱えてきた想いに向き合う場面こそ重要なわけですよ。映画を観た人ならわかることですが。
 
思えば、上がったり下がったり、宙に浮いたり。忙しい映画でした。この高さ、高度がニールの精神状態と連動している部分もあるし、セリフは少ないけれど、ゴズリングが得意とする、秘めた想いを表情に浮かべて見せる表現が今回も炸裂していて最高でした。
 
さて、これ、どう終わるよと思っていたら、やはりチャゼルはラストカットの余韻がすばらしい。今回もそうでした。あのツーショット! チャゼルはまたひとつ偉業を成し遂げつつ、難しい企画を軟着陸させました。四の五の言わずに、あなたも早く劇場のシートというコクピットへ!


さ〜て、次回、2019年2月21日(木)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『女王陛下のお気に入り』です。今週はチャゼルとゴズリングのコンビ。来週はエマ・ストーン。そう、『ラ・ラ・ランド』つながりですね。こちらはアカデミー作品賞を含む、今回最多の10部門ノミネートですよ。すごい。あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく!

 

『メリー・ポピンズ リターンズ』短評

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2019年2月7日放送分
映画『メリー・ポピンズ リターンズ』短評のDJ's カット版です。

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1930年頃、第一次大戦と第二次大戦の間、前作から20年後、大恐慌時代のロンドン。前作で少年だったバンクス家のマイケルは、今や3児の父。祖父の代から代々務めているフィデリティ銀行の臨時職員として働いています。ただ、時代の重い空気は桜通り17番地の彼らの家にも垂れ込んでいて、かつてのような経済的余裕はない上、マイケルの妻が1年前に亡くなったばかり。そんなタイミングで、彼が受けていた融資の返済期限が切れてしまい、自宅が差し押さえられるまでもう少し。バンクス家の一大事に、かつてマイケルを世話した教育係ナニーの魔法使いメリー・ポピンズが、20年前のように舞い降ります。
 
1964年に製作され、翌年のアカデミーでは、作品賞を含むその年の最多ノミネート。そして、ジュリー・アンドリュースの主演女優賞、作曲、歌曲賞、そして、今日はこの話も出しますが、特殊視覚効果賞などを受賞しています。ウォルト・ディズニー肝いりで作られた、実写とアニメを融合したこの名作ミュージカルを、なんとまあ、半世紀以上の時を経て、リメイクではなく、続編を作ったのが今作です。
監督はブロードウェイでの舞台振り付け師としてキャリアをスタートしたロブ・マーシャル。『シカゴ』『SAYURI』『NINE』など、踊りなどの身体表現が軸となる映画で監督をしている他、パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉でもメガホンを取っています。メリー・ポピンズを演じたのはエミリー・ブラント。マイケル・バンクスをベン・ウィショーが演じる他、コリン・ファースメリル・ストリープも印象的な役で登場します。そして、なんといっても驚かされるのは、前作で大道芸人や煙突掃除屋さんとして狂言回し的な立ち位置にあったバートというキャラクターを演じていたディック・ヴァン・ダイク、御年93歳が、またある役柄でスクリーンに元気な姿を見せることです。
 
それでは、制限時間3分の映画短評、そろそろいってみよう!

洋画も邦画も、シリーズだユニバースだリメイクだリブートだと、とにかくヒットしたキャラクターや設定を使い回す、興行的に安全第一な作品作りが多すぎる。そんな批判も業界全体に向けられているところではありますが、この作品については、かなり特殊なケースですよね。間違いなく続編ではあるんだけど、55年も経っているわけで、リアルタイムで前作を観た人よりも、これで初めてメリー・ポピンズに接する人の方が多いわけです。少なくとも、スクリーンでは。その意味で、僕に言わせれば、これは続編でありながらリメイクにもなっている作品です。
 
というのも、基本的な構造は同じなんです。バンクス家に何らかのトラブル発生。メリー・ポピンズ、空から登場。子どもたちに魔法の数々を披露。想像力を養っていくうち、やがては子どももそうなんだけど、むしろ大人が失いかけている無邪気な心を取り戻して夢と希望を抱かせ、問題解決の触媒となった彼女はまた空へ去っていく。そんな話です。前作から時間が相当経っていることを踏まえ、その型はあえてしっかり維持しながら語り直そうという判断だったのだと思います。

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時間に厳しい大人の社会。メリーの不思議な鞄。鏡。空に舞う凧。階段の手すり。絵の中に広がる別世界、銀行とのお金をめぐるトラブルなどなど、前作のモチーフをなぞりながら、続編なんで違いも出していくわけだけど、その違いを控えめにしている。
 
そんな中、僕がとても気に入った今作ならではの設定は、前回煙突掃除夫だったバートという狂言回しが、今回は街灯、当時はガス灯の管理をするジャックという人物に変わっていることです。ロンドンは世界で初めてガス灯を街灯として設置した街であって、街並みのシンボルでもあるわけです。
 
オープニングが見事でした。あれから20年経って、大恐慌に見舞われているロンドンの煤けたような街と、それでもそこにたくましく生きる労働者や子どもたちなど、市井の人々を、今の技術だからできるダイナミックなカメラワークで見せていく。わくわくします。ポイントは、時間が早朝で、ジャックは街灯を灯すのではなく、消して回っていること。実は今回の大事なモチーフは灯りなんですね。どれほどの暗闇であっても、小さな光を探すんだという、それ自体は抽象的なメッセージを映像として物語として見せていくにあたり、灯を消すところから始めるというのは、よくできてるなと感心しました。

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一方、本作への批判は、脚本に集中しています。尺が長いとか、サブエピソードが肥大化しすぎていて本筋がぼやけてしまっているとか。それは僕も否定しません。ただ、それははっきり言って、前作もそうだったじゃないですか。でも、前作を思い出してみても、やっぱり多くの人の心に残っているのはどこって、サブエピソードでの想像力と実験精神あふれる、まさに魔法がかけられたような、楽しくてしょうがない展開だったと思うんです。アニメと実写を融合させて、今見ても「これはどうやって撮影したんだ?」って目を丸くするようなマジカルな遊びをしていました。技術の最先端を駆使したわけです。
 
今回は逆ですね。ディズニーはとっくの昔に手描きアニメからCGへ完全移行。だから、今回ディズニーは当初難色を示したようですが、監督の強い意向で手描きのできるスタッフを呼び戻して、温故知新をやってのけた。手描きアニメのルネサンスですよ。ついでに強く要望しておきますけど、ディズニーみたいな映画界の横綱こそ、古い技術を守るためにも、こうした手書きの復興はもっと頻度を上げて、少なくとも数年に一度くらいはやるべきだと僕は思っています。
 
さておき、そうした、それこそ子どもが遊びに夢中になって家に帰るのを忘れてしまうような、そういう本筋からの脱線とか、語りのマトリョーシカ構造部分にこそ、僕は最大の魅力があるんだと理解しているので、別にいいじゃんって思っちゃうんですよ。ちゃんとセットで作り上げた、上下逆さまの家とか、理屈抜きに楽しいもの。

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ただ、そうは言っても、冷静に振り返れば、ご都合主義としか言いようのない展開が目に余るのも事実です。特にラストの時間とお金を巡る一連のサスペンス展開と解決法については、なんだかな~って首を傾げたし、悪役のバンクス家へのこだわりも説得力に欠けるものがありました。
 
それから、前作の名曲を使わずに徹底してオリジナルにした音楽も、気に入ったのはいくつもあるんだけど、終わってから口ずさめるかって考えると、前作には一歩二歩及ばなかったかなとも思います。
 
と、四の五の言ってきましたが、今の主流である「リアルな描写」でなく、ファンタジーなんだからと、あえて古い技術を大胆に導入したのは逆に新しかったし、夢と希望を風船に託したエピローグも素敵でした。そして、お隣さんのブーム海軍大将を筆頭に、「世の中変わった人がいてもいいんだ」っていうメッセージが前作以上に前に出ていたことも含め、大いに楽しめる1本でした。原作のエピソードもまだまだ残っていることだし、また近い内に続編を作って、今度はさらなる違いで僕らを魅了してほしいなと願っています。

さ〜て、次回、2019年2月14日(木)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『ファースト・マン』です。来てしまいました。デイミアン・チャゼルライアン・ゴズリングの『ラ・ラ・ランド』コンビ再び! こりゃ、IMAXで観たい! 僕、アームストロング船長の私生活やキャリアについて調べたことないんですけど、ここはあえてそのままの状態で、劇場というロケットに乗り込みます。あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく!

 

イタリア映画『愛と銃弾』公開記念レビュー

どうも、僕です。ポンデ雅夫こと、野村雅夫です。僕たち京都ドーナッツクラブが字幕制作を担当したイタリア映画『愛と銃弾』が、現在、全国で順次公開されています。大阪は2月1日からシネ・リーブル梅田、そして京都は2月9日から京都シネマでの上映がスタートします。僕たちもそれなりの数の字幕を翻訳してきましたが、実は全国で一般公開されるのは、この作品が初めて。しかも、監督の前作を買い付けてイベントで上映していたのも弊社でございまして、感慨もひとしおですし、何よりも作品に惚れ込んでいます。

 

そこで今回は… 東京での公開に先駆けて、僕がTBSラジオ「アフター6ジャンクション」に電話出演して宇多丸さんにご指南した内容をまず改めて記載しつつ、メンバーのチョコチップゆうこによるレビューをお届けします。どうか、この作品が多くの方の耳目を集めますように!

舞台は、イタリアを代表する大都市、ナポリ。街を牛耳る裏社会のボスのヴィンチェンツォが、敵対するファミリーに襲われるんですが、何とか一命を取りとめます。ただ、彼はもうマフィア(ナポリのこうした反社会的組織はカモッラと呼びます)の大物であることに疲れているんですね。そこへ、映画マニアの妻がこう持ちかけます。『007は二度死ぬ』みたいにしようよ。つまり、表向きは死んじゃったことにしてしまって、葬儀も盛大にやって、その後でひっそりと海外へ逃亡しようと。それぐらいの資金もあるし。この計画を知るのは、ファミリーの腹心数名だけ。すべてを秘密裏に運ばないといけない。ところが、ひっそりとヴィンチェンツォを運び込んだ病院で、女性看護師に姿を見られてしまうんですね。あのオンナを消せ。そう指示された腹心のひとり、ヒットマンのチーロが彼女を見つけ出した時に、気づくんです。この女、俺の元カノじゃないか。そこで、なぜチーロが裏社会に足を踏み入れたのかなど、苦々しい記憶が、彼女との甘い思い出と共にフラッシュバック。チーロは彼女を殺すなんてできずに、バイクで彼女と現場を逃走。ヴィンチェンツォ一家、敵対するファミリー、そしてはぐれたチーロと彼女。それぞれの運命やいかに…

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監督は、兄弟監督の「マネッティ・ブラザーズ」。日本ではDVDストレートとなっていました『宇宙人王さんとの遭遇』。そして、僕たち京都ドーナッツクラブがイタリア映画特集上映イベントで紹介した2013年の作品『僕はナポリタン』(下のポスター)が出世作。『愛と銃弾』が長編では7本目かな。これで一気に第一線に躍り出た人たちです。ホラー、サスペンス、アクション、警察モノといったジャンル映画を偏愛している監督なので、大衆娯楽作へのオマージュが多いです。今回も、『マトリックス』『バック・トゥ・ザ・フューチャー』、アメリカの青春映画『フラッシュダンス』(What a Feeling)も出てきます。デヴィッド・フィンチャーパニック・ルーム』、ミュージカルでは78年の『グリース』。果ては、マイケル・ジャクソンの『スリラー』まで。

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いわゆるノワールなテイストのマフィアものなんですが、そこにミュージカルをかけ合わせたコメディーでして、劇中に登場する歌詞がストーリーを引っ張っていく、『ラ・ラ・ランド』へのイタリアからのアンサー・フィルムとも言えるような1本。イタリア・アカデミーでは、主題歌、サントラ、衣装、作品賞など5部門受賞。ヴェネツィア映画祭では金獅子を『シェイプ・オブ・ウォーター』と争い、最優秀キャスト賞 など3部門を受賞しています。 

宇宙人王さんとの遭遇 [DVD]

 ゴモラ [DVD]

ナポリが舞台というと、ドキュメンタリーとフィクションのあわいで、暗黒都市としてあの街を描いた『ゴモラ』という傑作が10年ほど前にありました。一方、こちらはそういう息苦しいイメージを逆手に取り、笑いでくるんでスタイリッシュかつコミカルに撃ち抜いてみせています。だって、カモッラに歌って踊らせるんですもん。それもこれも、そもそもナポリには音楽劇の伝統があってのことなんですが、何もかもがとにかくごった煮。その複雑にして意外にもシンプルに楽しいテイストを、あなたもご賞味ください。
 
それでは、ここからが、チョコチップゆうこによるレビューです。どうぞ!

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京都ドーナッツクラブの拠点である関西を離れて1年、イタリア好きに囲まれていた生活から飛び出してみると「イタリア映画を観たことがない」という話を聞く頻度が多くなった。そうか日本ではまだまだイタリア映画はマイナーなのかも知れないと思い知った。

 

ではイタリア映画のイメージはと聞くと、「ヨーロッパの映画って暗そう」「戦時中の話が多い気がする」「やっぱりマフィアかな」というコメントが返ってきた。陽気な国、太陽の国、などとよく言われているイタリアという国のイメージと違ってなんだか重々しい。

 

もちろんある国の映画を一括りに語ることはできないが、改めて「ジャンルなんて関係ないよね」と思わせてくれたのがこの『愛と銃弾』だ。

 

物語の舞台はナポリ。主人公のチーロは、魚介王ヴィンチェンツォ率いるマフィアの一員で殺し屋として暗躍している。その魚介王の秘密を目撃した女性を殺害する命を受けるが、その目撃者が今なお愛する元恋人だったと知り二人で逃亡を図るところから物語は動き出す。

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そんなあらすじを聞くとマフィア映画かアクションもの、またはラブロマンスかと予想されるが、開始数分でその予想は揺らぐ。死体が歌いだすのだ。声高らかに。そこから始まる怒涛の歌にダンス。あれ、これミュージカルだったかなと混乱し始めた頭にはマフィアの抗争で乱れ飛ぶ銃弾の音が響く。いったいこの映画は何なんだ、次は何が飛び出すんだ、そんな期待と共に物語は進んでいく。

 

本作の至る所に散りばめられているのは、イタリア国内外の数多くの映画へのオマージュだ。映画好きの人がにやりとしてしまうシーンがたくさんある。元ネタのいくつかは登場人物がご丁寧に説明してくれるのだが、私がくすりと笑ってしまったのは自他共に認める映画好きである魚介王の妻マリアのワンシーンだ。DVD鑑賞中に涙しながら登場人物になりきって暗記している台詞を口にする彼女の姿を見て、イタリアの名作ニューシネマパラダイスの一場面、映画館で観客が台詞を次々に口にするシーンを思い出した。その映画が大好きなのよね、と映画への愛を感じて微笑ましい。彼女はマフィアのボスの妻らしく肝の据わった悪女だが、時折見せる映画愛が彼女をただの悪役に留まらせずコミカルさと愛らしさのあるキャラクターに仕上げている。特に逃亡のために彼女が考えた偽名には思わず吹き出してしまい、心のなかで「よ!大女優!」とツッコミを入れてしまった。

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この作品にはそんな思わず笑ってしまうシーンや大笑いしてしまう台詞が多くあり、そうかこれはコメディでもあったのかと気づく。アクションもミュージカルもロマンスもコメディも、あらゆる要素が含まれていてとても一言では形容できない映画だ。登場人物が歌うのも、ポップなものからナポリ民謡風、ラップと多種多様だ。時折「これは演歌?歌謡曲?」と思うコテコテ具合にナポリらしさも感じる。もちろん台詞は翻訳者泣かせのナポリ弁だ(原題の“Ammore e Malavita”の”Ammore”もナポリ弁の”愛”)。

 

そんなふうに「エンタメ要素全部盛り!味付けはこってりで!」と掛け声をあげたくなる具合で、観終わった時には「あーお腹いっぱい、面白かった」と思わせてくれた。

 

イタリア映画を観たことがある人もない人も、好きなジャンルに関わらずぜひ一度リラックスして観てほしい作品だ。国もジャンルも関係なく、楽しいものは楽しいと素直に感じさせてくれるだろう。

映画『十二人の死にたい子どもたち』短評

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2019年1月31日放送分
映画『十二人の死にたい子どもたち』短評のDJ's カット版です。

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インターネットの交流サイトで知り合った、未成年の男女12人。ある日、使われなくなって廃墟となっている総合病院の一室に、彼らは集います。目的は安楽死集団自殺です。約束の時間、揃ってみると、そこにはいるはずのない13人目の男性が、まだ生暖かい死体となってベッドに横たわっていました。秘密裏に集まったはずなのに、情報が漏洩していたのか。戸惑う彼らが死体を検証すると、他殺の可能性が浮かび上がります。ということは、この中にその犯人がいるのでは? それぞれの死にたい理由を抱えたまま、12人は事件の真相を追求していきます。

十二人の死にたい子どもたち (文春文庫)

原作は冲方丁(うぶかたとう)の同名小説。この作品は直木賞候補となりました。監督はご存知、堤幸彦。当コーナーでは、昨年11月22日に『人魚の眠る家』を扱ったばかりですから、あいかわらずの引っ張りだこっぷりがうかがえますが、僕の評価は作品によって乱高下していまして、今回はいかに、ってところです。
 
キャストには実年齢が二十歳前後の売れっ子が揃っています。杉咲花新田真剣佑北村匠海高杉真宙黒島結菜、橋本環奈、吉川愛など。
 
それでは、制限時間3分の映画短評、そろそろいってみよう!

 

堤幸彦は、前作『人魚の眠る家』では、延命治療とロボット工学を掛け合わせながら命の価値を問うてみせました。今回は自ら命を絶とうというところまで追い込まれた若者たちを通して、同様のテーマを扱うわけですが、ジャンルでいうと前作がホラーのテイストだったのに対し、今回ははっきり謎解きのあるミステリーですね。12人の中には、新田真剣佑演じる警察夫婦の子どもがいて、彼は重い病を抱えていたことから、薬学の知識があり、推理好きだってことで、途中から探偵のように謎解きを引っ張っていきます。
 
形式としては、先週扱った『マスカレード・ホテル』同様、ほぼ病院から出ない密室劇であることに加え、11時のドアオープンから、12時の開演、そして死体を巡るドタバタがあってという、たった数時間の出来事を描いているので、演劇的なサスペンス・ミステリーと言えます。

十二人の怒れる男 (コレクターズ・エディション) [AmazonDVDコレクション] 12人の優しい日本人【HDリマスター版】 [DVD]

 それは考えてみれば当然のことで、そもそも「十二人の〇〇」っていうのは元ネタがあるわけです。まずは、1957年にシドニー・ルメットが監督してベルリン映画祭近熊賞を獲得、そしてアカデミーにもノミネートされた陪審員たちの傑作会話劇『十二人の怒れる男』。そして、日本では筒井康隆がパロディーとして書いた戯曲『12人の浮かれる男』、そして三谷幸喜初期のヒット戯曲で映画化もされた『12人のやさしい日本人』があります。さらに言えば、この12という数字はキリストの弟子である使徒の数。ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』でも描かれている通り。そして、そこには裏切り者とされるユダがいる。それに倣うように、『十二人の怒れる男』では、父殺しの罪に問われた少年の裁判で、陪審員全員が少年の有罪を認めるだろうという予測の中、ひとりが無罪を主張。さあ、どうなるっていう展開。

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この作品でも、12人が集まって、ひとりの死体を前に、それでも計画通り集団自殺を決行するかどうか、全員一致が前提で決を取ると、ひとりだけ、空気の読めない兄ちゃんが「ちょっと待て」と言い始めることで、議論と推理が始まります。同じ構図なんですね。
 
でも、そこにこの作品がかけ合わせたのは、『霧島、部活やめるってよ』で見られた、時間を切り分けて意図的に観客を混乱させるストーリーテリングです。それ自体はある程度うまく行っていたと思います。

桐島、部活やめるってよ

なにせ12人も登場人物がいるので、描き分けが難しいんですが、そこはキャスティングやキャラ付けも機能していたので、名前までは覚えられずとも、こちらもうまくいっていたと思います。ただ、正直なところ、ミステリーの方に軸足を置きすぎていて、ひとりひとりの背景の掘り下げは浅めです。それぞれが死を決断した理由ですね。病気。有名人の後追い。いじめ。ろくでもない親との関係性のこじれ。他にも、意表を突く理由が中盤以降で明らかになる展開もありましたが、どれをとっても、予想の範疇に収まるし、密室劇にしたことで、病院の外へ唐突にカメラを持ち出すわけにもいかず、そのせいでセリフに頼ることになるから、どうも生きるか死ぬかという重い決断への踏み込みが弱いんです。そして、僕にとって一番不満だったのは、なぜ集団自殺を選んだのかという理由がいくつかの例外を除いて見当たらないってことです。

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そのままストーリーは謎解きばかりにこちらの興味を差し向けるので、肝心の集団自殺を決行するか否かの議論がどうも深まらない。というか、議論というわりにはみんな礼儀正しく他人の発言は遮らないし、掛け合いが少ないもんだから、どうもグルーヴが弱いんです。だから、謎が曲がりなりにも解明し、サスペンス、つまり宙吊りになっていた自殺するかどうかの最後の決を取る時のそれぞれの判断がですね、どうにもこうにも、あれじゃただの同調圧力じゃねえかっていう感じが否めない。それはそれで日本的なんだけど、なんかもやもやさせるものがありました。
 
堤監督のクセの強いカメラ移動やエフェクト使いは、前作の『人魚の眠る家』同様、抑制されているので、良かったんだけれど、どうも話がとんとん進んでいくばかりで、結果的に、観ている時は興味が持続して面白いんだけど、余韻はかなり薄いと言わざるを得ない。もったいない。
 
ただ、これからの日本映画界を背負って立つだろう世代の花形が揃ったという意味では、その演技合戦を見逃す手はない、少なくとも見ている間は釘付けになる作品です。

 この手の邦画では珍しく、既存の洋楽ポップスを主題歌にしていました。We are young♪ なんてフレーズと、自分たちの道を行くという若者の声の代弁という感じでしょうか。

 

リスナーからの意見として、「役者たちが10代に見えない」というものがあって、ディレクターとも打合せで話が盛り上がったのは、衣装のこと。確かにみんなバラバラで、それぞれに個性を出したかったというのはあるんでしょうけど、そこは制服でも良かったんじゃないでしょうかね。私服にすることで、むしろ大人びて見えちゃうという逆効果があった気がします。彼らには到着順に番号が付いてるけど、その匿名性から少しずつ人間性の違いが浮かび上がるっていうお話なら、匿名的な服装でいいと思うんです。制服にも色々あるし、着こなしで人となりは出せるわけだから。そうしていれば、数日前に番組で盛り上がった、「北村匠海くんの衣装の薄手の白シャツから下のランニングが透けていて気になる問題」も生まれずに済んだわけだし(笑)

さ〜て、次回、2019年2月7日(木)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『メリー・ポピンズ リターンズ』です。もうディズニーの釣瓶打ちです。しかし、なぜ今メリー・ポピンズなんでしょうか。気になる。僕はまだ今回の続編への知識がまっさらな状態ですが、あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく!