京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

『ジョーンの秘密』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 8月18日放送分
映画『ジョーンの秘密』短評のDJ'sカット版です。

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2000年、イギリスのMI5から突如拘束されたのは、郊外の住宅地で穏やかなひとり暮らしを送っていた80代の女性、ジョーン・スタンリー。容疑は、かつてイギリスの核開発情報をソ連に渡していたというスパイ容疑。彼女は無罪を主張するものの、少し前に亡くなった元外務事務次官ミッチェル卿の遺した資料を分析したMI5側は、かなりの自信をもって尋問を進めていきます。
 
原作は、ソ連KGBの元スパイとして実際に逮捕されたメリタ・ノーウッドをモデルとしたフィクション『Red Joan』です。邦訳は出ていません。向こうでベストセラーになったこの小説を、舞台を中心に活躍してきた演出家トレヴァー・ナンが監督となって映像化しました。逮捕された80代のジョーンを演じたのは、監督を信頼してやまないジュディ・デンチ。若き日のジョーンは、『キングスマン:ゴールデン・サークル』に出ていたソフィー・クックソンが好演しています。

キングスマン: ゴールデン・サークル (字幕版)

僕は先週木曜日の午後、大阪ステーションシティシネマで鑑賞してまいりましたよ。上映館数がかなり少なめということとお盆休みという要因が重なったんだとは思いますが、現状の上映スタイルではいっぱいいっぱいというくらいに、お客さんは入っていました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

冒頭、家族と慎ましやかに暮らしてきたのだろうジョーンの様子が手際よく示されます。広くはない庭で木々の手入れ。趣味なんでしょうね。同じく小ぶりで掃除の行き届いた家。キャビネットの息子の写真。と、そこへ、不意に何者かの来訪。そこで、凹凸の模様のある窓ガラス越しに映し出される、ジョーンの顔のショット。不穏な表情が、ガラスのせいで輪郭がズレてバラバラになっているんです。これはつまり、おっとりしていそうなこのおばあさんの見かけに騙されてはいけないし、彼女がひた隠しにしてきた秘密がこれから瓦解する可能性を示唆しているわけです。そして、逮捕までほんの数分。それなりにややこしい複雑なできごとを追ったドラマの割に、全体の尺は101分と短めで、その分、描写に無駄がないことを象徴する出だしです。

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(C)TRADEMARK (RED JOAN) LIMITED 2018

トレヴァー・ナン監督。僕は不勉強にもこれが初見でしたが、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー、ナショナル・シアターで活躍し、重厚な歴史ものからオペラやミュージカルといった歌ものまで、舞台の演出をメインにしてきた方です。あのジュディ・デンチが信頼するのもうなずける、手堅い語り口と演技指導だったんじゃないでしょうか。MI5による取り調べと、第二次大戦前後に彼女がどうソ連寄りの物理学者に成長していって、事に及んだのか、それが行ったり来たり。アクションとリアクションという調子で、シンプルに構成されています。過去と現在。動と静。特にジュディ・デンチが演じるパートにはほとんど動きがないんですけど、監督の本業である演劇的な見せ方でもなくって、クロースアップの切り取り、短めのカット割り、そして取調室、病室など、場所もこまめに変えながら、ジョーンの些細な表情の変化が伝わることにこだわった映画っぽい物語運びを実はしています。
 
ナン監督はインタビューで、これは「巨大なテーマを扱った小さな映画」だと言っています。なるほど、確かに、若きジョーンが実行に移したことひとつひとつは小さなことなんですが、それがやがて国家同士の力関係を左右するような大きな出来事に結びつくわけです。当時の国際情勢はちとややこしいですが、ざっくりと、ナチスの台頭と、敵の敵は味方だとばかりに一時手を結んでいた、市民も理解を示していた資本主義国と共産主義国というぐらいの理解で、映画は十分に追えます。現代史に興味のある方は、パンフを参照すると、そのあたり細やかに確認できるのでおすすめです。で、その国家同士の力学が変化していく渦中で、ジョーンの青春も動いていくんだけど、彼女の変化を体現したソフィー・クックソンがすばらしいです。

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(C)TRADEMARK (RED JOAN) LIMITED 2018

大学入学直後の垢抜けていない真面目な理系オタクが、ある夜窓から入り込んできたユダヤ系ロシア人、そしてイケてるソニアと知り合うことで、やがて彼女の周辺人物とつるむことで、どんどん人生を謳歌していく、女性としても開花していく、そして恋愛と思想の間に張られたタイトロープ、その危ない橋を渡る様子が、きっちり描けています。全体として小道具の使い方がうまいんですよ。たとえばミンクのコート。自分では野暮だと思った親戚からの貰い物を、ソニアが「これはクールだ」と褒めると、見方が変化するといったように、ひとつのアイテムを物語内で効果的に何度か配置しながら、ストーリーに映画的な奥行きを与えていました。

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(C)TRADEMARK (RED JOAN) LIMITED 2018

最終的に彼女が守り続けた核兵器に対する信念というか信条のようなものに、僕はさして共感はしませんが、言いたいことは理屈としてはわかる。物理学者としての葛藤があったことも、描けていました。大きな歴史のうねりの中で、流れに棹さして迎合するのではなく、人生を賭して独自に極秘に抵抗して平和を求めた孤独な胸の内を想うと、じわじわ感じるものがありました。確かに、巨大なテーマを扱った小さな映画になっているし、余韻はかなりのロングスパンです。大人がじっくり味わうスパイ映画という、新しいスタイルかもしれませんね。

さ〜て、次回、2020年8月25日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『ハニー・ボーイ』です。映画館で予告を観ていて、光の具合がとても美しいなと感じていました。ノア・ジュプくんの成長も見届けなきゃ。あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す!