京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

『悪は存在しない』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 5月28日放送分
映画『悪は存在しない』短評のDJ'sカット版です。

東京からそう遠くない長野県の田舎町。便利屋を営む男、巧(たくみ)は、小学生の娘、花とふたり暮らし。近所の人たちと集まって晩ごはんを食べている時に話題となったのは、彼らの町に計画されているグランピング場のこと。東京の芸能事務所が建設を予定していて、近く説明会が開かれるというのですが… 

© 2023 NEOPA / Fictive
楽家石橋英子がライブをする時に投影する映像作品を作ってほしいと依頼されたのが、『ドライブ・マイ・カー』で一緒に仕事をしていた映画監督の濱口竜介。実際に『GIFT』というライブ用のサイレント映像ができあがったのですが、それと同時にもう一本誕生した長編映画が、この『悪は存在しない』です。脚本は濱口竜介。音楽はもちろん石橋英子。巧を大美賀均(おおみか・ひとし)、娘の花を大阪出身で10歳の俳優、西川玲(りょう)が演じた他、芸能事務所のスタッフを小坂竜士(りゅうじ)と渋谷采郁(しぶたに・あやか)が演じています。
 
カンヌ、ベルリンに続き、この映画でヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を獲得することで世界三大映画祭を40代半ばにして制することになった濱口竜介。すごいもんです。監督は気負わず飄々とされている印象もありますが。
 
僕は先週金曜日の昼に京都シネマで鑑賞しました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

成り立ちからして特殊な作品でして、さっき言ったように石橋英子のライブパフォーマンスの裏で流していくための映像を作るところからスタートしていて、それはセリフも音もないサイレントの作品になっている。全部で6時間くらいある素材を、編集者は台本を渡されずに編集していったっていうんですよね。こちらは残念ながら観る機会に恵まれていないので未見ですが、当然劇映画のものと違っていて、石橋英子のライブに行かないと観られないし、ライブの生演奏と合わせて完成っていう作品ですよね。それとは別に、こちらにはサウンド・トラックとして石橋英子が音楽をつけている。珍しい兄妹作ですが、とにかくタイトルが重要ですね。『悪は存在しない』というフレーズが、冒頭からまるでゴダール映画のような調子とフォントでドンと出てくることで、楔のように観客の脳内に打ち込まれてしまうので、物語を追いながらも、僕たちはそれぞれに「悪は存在しない」というフレーズを反芻します。その中で、「悪は存在しない… んだよね?」とか、「悪は存在しないというのは違うのかもしれない」って思わされるんですよ。これはもう、脚本の魔術師でもある濱口竜介監督の策略ですよ。

© 2023 NEOPA / Fictive
物語の軸としては、比較的自然豊かなのどかな町に建設が予定されているグランピング場を巡る、東京側のよそ者の虫の良い甘くてずさんな話と、地元側の当然の反発という対立関係があります。ただ、そんな単純な話でもないというか、問題の住民説明会でもそういうツッコミは地元民から入ってますけど、コロナで困った東京の芸能事務所の補助金を使ったサイドビジネスたる計画のプレゼンをさせられている社員の男女ふたりにしてみたって、こいつらはただの使いっ走りだし、なんならかわいそうだという気分にもなってきます。あの高橋という男にしたって、持ち前のガサツさとか無神経さもあるものの、悪い奴かって言えば、決してそんなことはないんですよね。さらにナメた態度の社長とかコンサルに掛け合ってみたって、あのふたりにしてみれば梨の礫なわけで、むしろこいつらにこそグランピング場でのリフレッシュが必要だわってくらいに疲れた都会の人間なんですよ。だから、田舎vs都会とか、自然vs人間みたいな二分法でついつい捉えたくなるんだけど、そういうことでもないんですよねっていうのを、濱口監督はじわじわ周到に見せては僕たちをあの不気味な木立、思考の森へと誘っていくんです。怖い人だわぁ。

© 2023 NEOPA / Fictive
怖いと言えば、この映画では地元の人も怖いっちゃ怖い。主人公の巧にしても、最初っからなんだか得体が知れないですよね。無言の薪割り、チェーンソーのいかつさ、タバコの吸い方、便利屋という職業での労働も具体性に乏しいので謎めいています。10歳ぐらいの娘はいるが母親はいない。いるのは家の家族写真の中だけれど、いついなくなったのか他界したのか事情はなんだったのかわからない。理性的な話し方をするし、それこそ説明会では気色ばむ友達をなだめる冷静さも失わないが、度を越して忘れっぽいところもある。怖いです。だから、善悪、敵味方ときれいに線が引けるものでもないし、たとえ引いて見ていても、その線は後半に向かってどんどんおぼろげになる。ただ、巧をおそらく本来の彼以上に謎めいた存在に仕立てているのは、ここも監督なんです。劇中何度も聞こえる鹿猟の鉄砲の銃声。林の中の木のトゲ。東京の男女を描くスケッチ。冒頭からタイトルを挟みつつ続く森をひたすら見上げて前進する映像。鹿の死骸。林の中で歩いているうちにいつの間にかおぶわれている娘。不穏で不気味なショットと石橋英子ジム・オルークの奏でる音楽が重なると、まるでどこかから鹿に見られているような、我々が鹿の視点を借りているような気すら… 

© 2023 NEOPA / Fictive
そう、これは明らかにコロナ禍を踏まえた現代の寓話なんですよね。すごくリアルな会話が挟まったりするもんだから、そして実際によく目にする形式だけの「説明」を見事に演出するもんだから巧よろしく僕たちもころっと忘れそうになりますが、これ、寓話だと捉えるべきなんですよ。鹿も、水くみ場の近くの丘わさびも、グランピング場も水資源も、大なり小なり何かに置き換えて考えることでそこに解釈や寓意がどんどん生まれる映画なんですよね。だから、ここははっきり言っておきますが、最後に起こる予想だにしない出来事とそこに静かに広がる怒りの波紋に気を取られすぎてしまうと、つまりあの出来事の意味を論理的に説明付けるために映画全体のディテールを見渡そうとするのは決して豊かではないと僕は思います。ただ、ひとつ、どんな解釈をするにせよ、大切なフレーズが、もちろんタイトルの「悪は存在しない」ともうひとつ「水は低いところに流れる」ってやつですね。上流で起きたことは多かれ少なかれ下流に影響を及ぼす。グランピング場の浄化槽の問題から出てきたセリフですが、人間の様々な組織の権力関係を考えるうえでも有効だし、歴史を考えるときにも有効じゃないでしょうか。それから、窮鼠猫を噛むじゃないですが、人間を襲わないとされる鹿が襲う時というのはどういう時か。これも、あの突発的な事態を考える上で材料になりそうです。あの少女の鼻血は? 鳥の羽は? なんて具合に見終わってからも時々思い出して考える映画として僕はよくできていると思います。忘れられないもの。この映画をこれから流れていくあなたの人生の上流に置いておくに値する作品ですよ。

さ〜て、次回2024年6月4日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『帰ってきた あぶない刑事』です。映画神社の映画の神様の緩急の付け方がすごいな! 先日番組で取り上げた新聞記事に書いてあったんですが、神戸でもロケを行ったみたいですね。このシリーズには正直疎い僕ですが、それだけにフラットな目線で楽しんできますよ。さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!