この作品は、劇作家である五十代の女性ヴェーラが、歳の離れた若い恋人の六歳の姪である少女フラヴィアに書き続けた十六通の手紙からなっています。読み始め、まるで他人の恋文か秘密の交換日記を読んでいるような気恥ずかしい気持ちが溢れてきます。それほどまでにその手紙の中には、若く才能に溢れた美しい恋人への愛情、その恋人が結び付けてくれた六歳のかわいい少女とその家族達への愛情が言葉を尽くして語られていきます。しかし、八年という年月が十六通の手紙の上を、そしてヴェーラの上も幼かったフラヴィアの上をも過ぎていっても、(その中には、若い恋人とも別れも、その後の孤独と憂鬱の日々もあります。)、ヴェーラはずっと初めて会ったころの六歳の少女フラヴィアに向けて手紙を書き続けます。
それはやがて、ヴェーラが、生身の少女であるフラヴィアにだけではなく、自分自身のなかいる少女、思い出のなかで今も呼吸し、不意にちらりと顔をのぞかせる女の子にむけて語りかけ続けているからだと気付きます。そして、大人になっても年月の行き着く先ばかりに自分を追い込み食いつぶされないための大切な真実である―――わたしたちの体のなかには、いくつもの歳が順番もなくいっしょに棲んでいます。女の子とおばあさんが、青年と成熟した男が。私達は群集です。そう、ペソアが言ったように。ひとつの名前だけでは足りません。――-ということを大事にしていることにも気付くのです。
十六の手紙の一行一行には、まるで女の子達のおしゃべりのようにとりとめもなく、思いつくままの言葉が書き連ねてあるように思われます。しかし、作品のあちらこちらに、作者が幼い自分も少女の自分も、愛憎も孤独も知っている大人の自分も抱えたままで見出した愛情や人生についての深い疑問がちりばめてあります。好き嫌いが分かれる作品かもしれませんが、誰かに恋をしていたり、愛したりしているならば、深く共感する一節が必ずあるはずです。
『思いではそれだけで愛おしい』(Dolce per sé ダーチャ・マライーニ著 中山悦子訳 中央公論新社 2001年)