京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

おススメの本 『月とかがり火』 チェーザレ・パヴェーゼ著 

 私生児として育った主人公が、貧しい養い親の元を離れ青年となり、海を渡り、世界中を次々と逃げ出すように放浪した後、財をなして育った村に帰ってきたところからこの小説は始まります。夏の休暇が終ればやがて都会の喧騒に帰っていかなければならない主人公は、貧しさに窮しながらも、畑を耕し、葡萄を育て、村の人々と小さな祭りを楽しんだ遠い昔の生活が、長い歳月に隔てられていても、知らず知らずぶどう酒やポレンタのように体の中にしみこみ、自分を強く惹きつけゆさぶることに気がつきます。しかし、幼い頃、知性やその行き様で憧れだった年上の友人ヌートとの再会により、まったく別な人間になってしまった友人の姿とともに、外の世界が自分をまったく別な人間に変えてしまったという、もはや取り戻すことができない隔たりに気づくのです。

 深く美しい抒情性に彩られたこの作品は、しかし、ただ郷愁を美しく謳いあげただけのものではありません。主人公が村から遠い地で過ごしたのはイタリアをファシズムの嵐が吹き荒れた年月―――この陰惨なときに、主人公が愛した谷や丘で何があったのか、ヌートは何をみたのか―――パヴェーゼは暗い真実を記しています。
 ルポルタージュでもなく、ノンフィクションでもない、〈小説=虚構〉が、かつて戦時下のイタリアのあちらこちらであったであろう真実を、記録としてではなく、血肉を持った痛みとしてこうも刻み付けることができるのか、抒情性の力を強く感じた作品でした。行間から詩が溢れてくるほどの文学性の高い抒情の語り口で、前世紀に何があったのか、戦争が何をしたのか伝えています。21世紀を生き始めたわたしたちがまだまだ確かな糸を紡いでおかなければならない〈過去〉がそこにはありました。

『月とかがり火』(La luna e il Falò、チェーザレパヴェーゼ、米川良夫、白水社、1992年)