京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

『ドント・ルック・アップ』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 2月22日放送分
『ドント・ルック・アップ』短評のDJ'sカット版です。

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ミシガン州立大学天文学者ミンディ博士のもとで研究を続ける大学院生のケイト・ディビアスキーは、ある日、新しい彗星を発見するのですが、それが半年後、ほぼ間違いなく地球に衝突し、そのインパクトは人類を滅亡させるレベルであると、気づきます。ふたりは、政府に対策を促すべく、なんとか大統領にその事実を伝えるのですが、その回答は「静観し精査する」というものでした。がっかりしたふたり。もちろん、その間にも彗星は地球に近づいています。どうなる、人類。

マネー・ショート華麗なる大逆転 (字幕版) バイス (字幕版)

 社会派ダークコメディーを得意とする、『マネー・ショート 華麗なる大逆転』『バイス』などの監督、アダム・マッケイ。彼が監督・脚本・製作を務めた今作には、超豪華キャストが集いました。ミンディ博士にレオナルド・ディカプリオ、ケイト・ディビアスキーにジェニファー・ローレンスのほか、メリル・ストリープケイト・ブランシェットジョナ・ヒルティモシー・シャラメアリアナ・グランデと、すごいことになっています。

 
去年の12月10日から一部劇場で公開されまして、今はNetflixで配信中。アカデミー賞では、作品賞や脚本賞など、4部門にノミネートしています。僕は事前に観ていましたが、先週土曜日、Netflixで改めて鑑賞いたしました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

アダム・マッケイ監督は、少なくとも僕が観ている作品、どれも好きだし、世相の捉え方、風刺や皮肉をたっぷりまぶしたストーリーライン、セリフ回し、そして編集がすばらしい人ですよ。それが今回はSFだっていうから、どんなものなのか、観る前はピンときていないところもあったんです。やはり現実ベースで、とことん調べて、情報過多という勢いで作劇をするタイプの人ですから。観たらもう、夢中です。巨大な彗星が地球にぶつかるっていう、その設定から、よくぞここまで深いレベルの掘り下げをして人間の悲しい性を浮き彫りにできたもんだと、手放しで拍手してしまいました。
 
ここ数年、僕たちは新型コロナウィルスによるCOVID-19という感染症に翻弄されています。このワードは安易に使うべきではないってことは承知のうえであえて言えば、これって、人類共通の敵とも言えるわけです。だから、普段は小さな違いをあげつらって、資源や利権を奪い合っていがみ合っている国や地域や企業を越えて、たとえばワクチンなど、知恵と力を資金を集めて立ち向かってきた側面もあるものの、コロナ禍をきっかけに、現実の諸問題がむしろ深刻化した側面もありますよね。あちこちに引かれていたボーダーが、目に見えるものも見えないものも含めて強調されたような気がして、なんだかなぁって思うこともしばしばでした。アダム・マッケイは、そんな「人間ってどうしてこうなるのか」っていう風刺を、ウイルスよりももっと強烈な共通の敵、彗星に託すことで成立させています。

幼年期の終わり (光文社古典新訳文庫)

映画を観ていて思い出したのは、アーサー・C・クラークの代表作であり、SF史上の傑作とされる『幼年期の終り』です。あの小説では、地球に圧倒的な異星人がやってきたことで、人類は当初こそ混乱するんだけれど、やがて既存の国家みたいな枠組みから離れて奇妙なことにユートピアのような地球に変貌していきました。ところが、アダム・マッケイが想定したのは、まるで逆のディストピアです。半年後には人類が滅亡する可能性が高いって言ってんのに、大統領も、メディアも、なかなか取り合わない。やっと発表できたと思っても、売れっ子シンガー・ソングライターとラッパーの痴話喧嘩と復縁話に視聴率でボロ負けするわ、ネット民からはさっそくコラージュだ何だで天文学者がいじられるわで、とにかくどうしようもないんですよ。そのどれもが、ありそうなことだなぁって思えることのオンパレード。SF設定で浮かび上がらせた人間の所業は、隕石衝突で絶滅したという説のある恐竜と同レベル、いや、それ以下じゃないかという愚かさ。

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(C)Netflix
環境問題のメタファーになっているような分断も起こります。彗星を直視してともに立ち向かおうという人たちと、そんなの嘘っぱちで空なんか見上げてもしょうがないんだ、Don't Look Upだという人たち。それから、デマによるモノの買い占め、品薄状態。政治家による選挙への利用。超巨大企業による政府への介入、などなど。結局は目先のことばかりです。そうこうするうちに、彗星はやって来るというのに、そんなこと今はどうでもいいだろうというエピソードの連続です。で、この映画のすごいのは、リベラル寄りの人たちにも痛烈な皮肉をかましている点でして、ディカプリオ演じるミンディ博士もまたメディアに出ているうちに調子に乗って、ミイラ取りがミイラになる調子で、うさんくさい慈善運動家みたいに見えてくるといった具合に、立場の違う人たち双方をシニカルに描いているということです。IT長者も、ティモシー・シャラメ演じるスピリチュアルなストリート・キッズもそう。そして、最後はどうなるってところですが、これが飛び抜けて痛烈なんですよねぇ。僕にとっては、同じく地球や人類滅亡のかかったあまたのスーパーヒーローもの以上にゾクゾク来ました。

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(C)Netflix
2時間18分と長いですが、テンポが良いし、笑いの仕掛けに満ちているので、短く感じます。それは、アダム・マッケイ自慢の編集が、また輪をかけて抜群だからです。人のセリフの途中でぶった切って次にいっちゃう笑いに加え、シーンとシーンの間に挟み込む、一件、脈絡がなさそうに見えて、実はひとつひとつ意味を込めて吟味された映像のチョイスも見事。僕はドハマリです。

さ〜て、次回、2022年3月1日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、濱口竜介監督の『偶然と想像』となりました。『ドライブ・マイ・カー』がアカデミー賞にいくつもノミネートということになる中、こちらのオムニバス映画も公開されて、しかもコロナ禍で配信も並行して行われているんですが、そのやり方が特別で興味を持っていたんです。要は、この作品を公開している映画館にも、その売り上げが配分されるように、オンラインで観るにしても、自分の贔屓の映画館をネット上で選択できるようになっているんです。これはすごい。あなたもぜひやってみてください。鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す!

『The Hand of God』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 2月15日放送分
『The Hand of God』短評のDJ'sカット版です。

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舞台は、1980年代のナポリ。主人公は、自分の将来、進路について考える年頃の悩めるハイティーン、ファビエット。他に登場するのは、家族や友人、親戚、ご近所、そして憧れのアーティスト、さらにはセリエAの地元チームに加入したブラウン管ごしのディエゴ・マラドーナ、などなど。多感な若者ファビエットをめぐる豊富なエピソードを通して、パオロ・ソレンティーノ監督が当時のナポリを、自伝的に、そして断片的に、しかし立体的かつ多面的、ノスタルジックに描写した物語です。

グレート・ビューティー 追憶のローマ(字幕版) 

監督・脚本・製作は、『グレート・ビューティー/追憶のローマ』でアカデミー賞外国語映画賞を獲得したパオロ・ソレンティーノ。主人公のファビエットに扮したのは、フィリッポ・スコッティ。この作品で、ヴェネツィア国際映画祭で優れた新人俳優に贈られるマルチェロ・マストロヤンニ賞を獲得してブレイクした22歳の新鋭です。父親を演じたのは、イタリアを代表する名優にしてソレンティーノ作品の常連、トーニ・セルヴィッロ。他にも、『ワン・モア・ライフ!』のレナート・カルペンティエーリなどが出演しています。作品はヴェネツィア国際映画祭審査員グランプリにあたる銀獅子賞を獲得し、アカデミー賞国際長編映画賞にノミネートしています。去年の12月3日から一部劇場で順次公開されている他、今はNetflixで配信中です。
 
僕は先週土曜日、Netflixで鑑賞いたしました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

パオロ・ソレンティーノ監督は、現在51歳でして、これが長編9本目かな。2001年デビューなんで、2・3年に1本、コンスタントに公開にこぎつけているんですが、すべて脚本も自分で書く作家性の強い映画人です。カンヌ、ヴェネツィア、オスカーを始めとする名だたる映画祭で次々と賞を獲得していることから、今やイタリアを代表する巨匠だと言われることが多いです。他に小説も書いていて、まだ邦訳はないものの、僕も持っていますが、これがなかなか面白い。彼は、自分が影響を受けた、インスピレーションを得た人たちとして、フェリーニ、スコセッシの名前を挙げているんですが、それはまあ映画監督として、そして過去作を観れば、なるほどなと感じるところなんですが、同じようにしてトーキング・ヘッズも並べるんです。これも、ショーン・ペンと一緒に作った『きっと ここが帰る場所』に結実しました。去年の『アメリカン・ユートピア』ばりのものすごいライブシーンのある作品でもあって、これも強くオススメします。つまり、ソレンティーノは、自分の影響を公言しながら、オマージュと片づけるにはためらわれるほどのレベルで、先達の仕事を賛美しながら、咀嚼して磨いて独自の表現にまで高めてきました。そこで描くのは、抽象的な表現ですが、欲望に満ちた人間の不思議です。人はなぜ欲望に固執するのか、夢を抱くのか、そして囚われたり、絡め取られたりするのか。個々人のエピソードと、その複雑怪奇な集合体としての街や時代を映像に凝縮する作風です。

きっと ここが帰る場所(字幕版) アメリカン・ユートピア

 そして、アカデミー賞の授賞式で観客の度肝を抜いたのが、マラドーナへの感謝です。マラドーナがいたからこそ、今の僕がいると。どういうことなのか。今作では、ソレンティーノが映画監督になってからも、37歳にいたるまで住み続けたナポリそのものの不思議と、世界的スターのマラドーナナポリへやってきたことがいかに多くの市民に影響を与え、例のワールドカップにおける神の手ゴールによって自分が文字通り生かされた体験の不思議を描いています。マラドーナがいたからこそ、今の僕がいるという趣旨の発言は、誇張でもなんでもないのだと、これを観ればわかります。

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映画全体を貫く一本のストーリーラインというのはありません。主人公のファビエットは狂言回しとして、個性豊かな人物のひとつひとつ強烈なエピソードを見たり聞いたりしては、それを少しずつ人生の滋養にしていくといったところ。ユーモアがふんだんに盛り込まれる前半と、ある決定的なできごとを境に、否応なく自立を迫られて映画監督という夢にもがきながらも進んでいく後半。光きらめく前半と、闇の中に光を探す後半。トーンは変わりながらも、スクリーンには人の営みのめくるめくワンダーが貼り付いています。

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冒頭、美しきあこがれのおば、パトリツィアの身に起こる宗教的かつ俗っぽくもある奇妙なできごとのシーンがありました。彼女は聖人と妖精に出会ったというのだけれど、夫からは浮気だと罵られて大騒ぎになる場面。ファビエットは、彼女の不可思議な体験を信じるんですよね。理性や理屈を超えて、その話を受け入れるわけです。そのスタンスが全体を通して満ちています。思わずあっけにとられたり、固唾を飲んでしまう、現実ベースなのに現実離れした映像の数々は、鑑賞後にも不意に脳裏に蘇るほど、すごいです。ラスト、主人公がナポリを離れて映画の都ローマへとひとり列車で旅立つ場面。車窓の外側からとらえたファビエットの顔には、ガラス越しに外の景色が二重写しになっていて、それが流れていく。ナポリで彼が経験した数々のできごとを僕たちも反芻しながら、人の営みや時代、街の不思議と、その中で地に足つけて自分の生を紡ぐのだと一歩踏み出す勇気をじわじわたたえるラスト。ノスタルジックであり、シビアでもあり、愛おしくもあり、忘れたいが、思い出される… 遠いナポリのユニークな映画でありながら、オトナの階段を登る若者の普遍的な有り様をしっかり描く。ソレンティーノ、やはり巨匠の域です。入門としてもオススメ。フェリーニを継承するイタリア映画の最高峰のひとつ、ぜひどなたもご覧ください。

エンドで流れるこの曲は、やはりナポリ出身でナポリ弁を歌に持ち込むPino Daniele。クラプトンやパット・メセニーとの共演でも知られる偉大なるミュージシャンです。ナポリには千の色があると歌いだして、街の、そしてそこに生きる人びとの悲喜こもごもを愛情たっぷりに歌いこんだ名曲です。

さ〜て、次回、2022年2月22日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『ドント・ルック・アップ』となりました。超豪華キャストでアダム・マッケイが描く、SFダーク・コメディにして、アカデミー賞作品賞にノミネートしたNetflix配信作品ですが、どこまで笑って見られるのか。そして、SFと言えるのか、な、内容ですよ。空恐ろしい。既に観ておりますが、これはもう一度だ! あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す!

『ノイズ』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 2月8日放送分
『ノイズ』短評のDJ'sカット版です。

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伊勢湾に浮かぶ小さな猪狩島。住民の高齢化と過疎化、そして町の財政悪化が進む中で、黒イチジクの生産という新しい産業を創出して注目を浴びる若者、35歳の泉圭太。彼は、同じく島育ちの幼馴染、加奈と結婚。娘の絵里奈と3人家族。いずみ農園には、猟師として害獣駆除などを手がける親友の田辺純もよく手伝いに来てくれていました。そんなある日、彼らの農園に不審者が侵入。着任したばかり、やはり島出身の警察官を呼び、島の3人で不審者ともみ合ううちに、誤ってその不審者を殺してしまいます。自分たちの未来、島の未来が、この一件ですべてパーになるというのか。3人は共謀し、その死体をなかったことにしようとするのですが…

ノイズ【noise】 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

原作はグランドジャンプで連載されていた筒井哲也の同名マンガ。脚本は片岡翔、監督は『ナミヤ雑貨店の奇蹟』など、ベテランの廣木隆一。キャストが豪華です。いちじく農家の泉圭太を藤原竜也、妻の加奈を黒木華、幼馴染の純を松山ケンイチ、警察官を神木隆之介が演じる他、永瀬正敏柄本明余貴美子渡辺大知らが出演しています。
 
僕は先週金曜の朝、MOVIX京都で鑑賞いたしました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

こういう死体の処理で困る話ってのは、いろいろありますが、クラシックで代表的なのは、やはりヒッチコックの『ハリーの災難』でしょう。タイトル通り、死んでいるハリーがだんだん気の毒になり、死体が移動するたびに、もうブラックな笑いがこみ上げてくるというタイプの作品でした。そして、古畑任三郎刑事コロンボのように、観客は殺人の現場に居合わせる恰好なので、犯人と同じように何がどう起きたかを知っているがために、それがいつかバレてしまうのではないかという不安がサスペンスにつながるんですが、そこへ猪の死体が登場したり、人間の死体が増えたりして、話がどんどんこじれていくというのが、物語の面白みにつながっています。僕はマンガ原作も今回読みましたが、たとえば死んだ猪は映画版独自のアイデアでして、なるほどアレンジとして、猪肉いい味出してんなと思いました。

ハリーの災難 (字幕版)

なんて言い回しをしたくなるくらい、『ノイズ』にもブラックで思わず笑ってしまうような展開というのはあります。ただ、まったく笑い飛ばせないのは、のどかな島に紛れ込んだ異物、ノイズとして死んでいった男の過去の性犯罪と出所してからの行動がおぞましいものであることに加え、これが金田一耕助的な日本のコミュニティの閉鎖性を浮き彫りにするものだからです。

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(C)筒井哲也集英社 (C)2022映画「ノイズ」製作委員会
理由はなんであれ、取り返しのつかない犯罪の当事者として、自分のこれまで培ってきたことや描いていた未来を失いたくないがために、その犯罪を隠蔽しようとする。それは古今東西、たくさんの物語で描かれてきたことです。今作で発端となる事件も、主人公の泉圭太にしてみれば不条理そのものだし、素直に自首していれば、罪は極めて軽かったはずなんです。ところが、そうしなかったのは、彼が軌道に乗せてきたいちじく栽培という事業と家族と同じように、あるいは下手すりゃそれ以上に大事なことである島の振興と繁栄が頭にあったから。居合わせた幼馴染の純も、親友の家族を守ることと島の未来をどうするんだということが動機になり、若い巡査は警察の先輩の教えに従い、法律をかたくなに運用するよりも、時には社会のかさぶたとして犯罪を黙認し、コミュニティを維持することを目指し、3人は死体をなかったことにしようとするわけです。
 
この行き過ぎた連帯意識と閉鎖性は、平和な島を波立たせます。ストレンジャーの訪問によるノイズで生じた波紋は、島の各所に及び、そこでまた誰かにぶつかって波立ち、それまで表面化していなかった心のノイズがそこかしこで顕になって、警察官が言うところの「かさぶた」は脆くも剥がれ落ちてしまうわけです。その点で、永瀬正敏演じる刑事が、島全体を敵に回しているようだという一言も効いてきます。

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(C)筒井哲也集英社 (C)2022映画「ノイズ」製作委員会
この閉鎖性というテーマっていうのは、舞台を島にしたことでよりシンボリックに浮かび上がるし、人物の配置や各家庭環境の設定も微妙にアレンジしていて、その意図にうなずけるところも多くあったんですが…
 
問題は自体が複雑化していくにつれ、住民の誰が何をいつからどこまで承知しているのかが観客にわかりづらくなり、原作をスケールアップさせてサスペンス重視にしたことが、むしろ災いしていること。そして、原作では、事件をきっかけに家族やコミュニティがむしろ崩壊から立ち直る再生の兆しを見せていたのに対し、実は映画版では最後の最後に大どんでん返しが用意されていまして、僕ははっきり言って、そこに納得できないものを感じています。ひっくり返るくらいまんまと驚いたし、「映画ではここが違うんです、どうよ?」っていうドヤ顔が透けて見えそうなカメラワークでもあったんですが、見せ場は確かに作れても、それでじゃあ結局この映画は何が見せたかったのか、原作とはまるで違う後味に変貌する必然性がいまいち理解できないし、あのラストシーンに何を込めたのか、それもピントがぼやけるなと感じます。
 
その意味で、この映画化は、劇場を後にしてからの宙ぶらりん感が、物語以上にサスペンス、宙吊りだなと僕には思えてしまいました。

さ〜て、次回、2022年2月15日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『Hand of God ー神の手が触れた日ー』となりました。『グレート・ビューティー』でアカデミー賞外国語映画賞を獲得したイタリアの名匠パオロ・ソレンティーノによる自伝的作品。ヴェネツィアでは審査員賞に相当する銀獅子を受賞しています。今回もアカデミー賞国際長編映画賞のイタリア代表となっていまして、日本でも劇場公開されましたが、今はNetflixでいつでもどこでもご覧いただけます。あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す!

『CODA コーダ あいのうた』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 2月1日放送分
『CODA コーダ あいのうた』短評のDJ'sカット版です。

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マサチューセッツ州の海辺にある小さな町。女子高生のルビーは、聴覚障がい者の両親と兄、その家族の中でひとりだけ耳が聞こえるんです。陽気でユーモアが絶えない家族と社会の架け橋として、彼女は折りに触れ通訳をしながら、早朝は家業の漁に出て、その後に学校へ行っていました。新学期、あこがれのクラスメイト、マイルズのお近づきになろうと、彼と同じ合唱部に入ったルビーは、先生に歌の才能を買われ、バークリー音楽大学への進学を勧められるのですが、それは家族と離れ離れになることを意味するわけで、ルビーの葛藤の日々が始まります。

エール!(字幕版)

2014年製作のフランス映画『エール!』をリメイクしようと権利を手に入れたプロデューサー陣が白羽の矢を立てたのが、マサチューセッツ州出身の監督シアン・ヘダーで、彼女が脚本も手がけました。ルビーを演じたのは、手話も歌のレッスンも今作が初めてだったというエミリア・ジョーンズ。その家族には、母を演じたオスカー女優のマーリーマトリンのほか、トロイ・コッツァー、ダニエル・デュラントと、聴覚に障がいを抱える俳優陣がキャスティングされました。
 
僕は先週金曜の昼、MOVIX京都で鑑賞いたしました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

劇場で感極まってしまったことをまず告白しておきます。後半、1/4ぐらいはもうしょっちゅう熱いものがこみ上げてきて大変だったんですが、空席を挟んで僕の3つとなりだった女性は、僕よりもよっぽど感極まりまくりでした。泣けるからいい映画だなんて、薄っぺらいことを言うつもりはありませんが、これは、人がわかりあえる喜びと、やがて哀しき別れが人生にはつきものだという切なさを的確に僕たちに伝えることで、観客の涙腺を著しく刺激する、間違いなく上出来の映画です。
 
これは耳の聞こえない、ろう者の家族における、唯一の健聴者の話。英語では、主人公ルビーのような人を、Children of Deaf Adultsと呼ぶのだそうで、その頭文字を取って、CODA、それをタイトルとしているんですね。ルビーのようなコーダは、どうしてもメディアの役割を担うことになります。アメリカ式手話を母語とする家族と、英語を話す社会との橋渡し、パイプ役です。通訳に代表されるあれこれをするルビーは、大変ですよ。家族には頼られ、社会からの露骨な好奇の目や、からかい、卑下にも最前線で接することになる。思春期なんて、なおさらです。って、ここまで話していて、そうか、そういう障害者の特別な話なんだね、いかにも感動を誘いそうだって早とちりしないでください。

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© 2020 VENDOME PICTURES LLC, PATHE FILMS
シアン・ヘダー監督に僕は好感が持てるなと思うのは、作劇におけるフラットさです。ろう者もコーダも、どちらかにスポットを当てるために、その存在、描写に強弱をつけたりしないんです。ルビーのことがきっとどなたも好きになるのと同じように、他の家族3人もしっかり丁寧にその心理を描いています。そのうえで言いますが、ルビーはふたつの世界の狭間でアイデンティティに揺れる女の子なんです。ろう者のことも「普通とされる人たち」のことも、手話も英語もわかると同時に、そのどちらにも完全になじめない。あの感じは、僕も日本イタリアのダブルとしてよくわかる。それに、多かれ少なかれ、家族と社会、そして自分の意志や希望が一致しなくて板挟みになって苦しんだ経験のある人は多いわけですよ。進路をどう決めるかでもいいし、誰と一緒に、どこで暮らすかでもいい。これは親離れ、子離れを描く普遍的な映画でもあります。
 
そのうえでさらに好ましいのは、映画内で化学調味料みたいなBGMが鳴ることはなく、あくまで控えめな劇伴と、DJとしても唸らざるをえない、物語を補強する完璧な既存曲のチョイスと、エミリア・ジョーンズの声が、音楽が肝になっている。音楽は言語を超えるなんて人は言います。ルビーの恩師になるメキシコ人のユーモラスで最高な教師は、それを実感して異国で生きているキャラクターだから、特にここでは歌の喜びを余すことなく僕らに認識させます。

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© 2020 VENDOME PICTURES LLC, PATHE FILMS
ただ、ろう者にとって歌とは、音楽はどうでしょう。その言語は軽々しく超えません。そのことを、しっかり僕らに突きつけるシーンもあるのだけれど、その段階を踏んだ後に、まったく同じ感動ではないかもしれないが、ろう者にも音楽の喜びが十二分に伝わる場面が用意されていて、それは手話ではないんです。それは観て味わってほしい。
 
そして、子離れですよ。あるいは、兄弟の別れですよ。そこで僕の大好きな映画に必ずと言っていいほど出てくる被写体から遠ざかるショット、後退トラベリングっていうカメラの動きまで入ってこちらの涙腺の蛇口をクイッとひねるんだから、もう大変です。客観的にすばらしい映画だし、僕はもう大好物な作品でした。
エンドに流れるこの歌が、主人公のその後をそっと教えてくれるようで、これがまた良かった。CODAってのは、音楽的には、楽譜で表記されるイタリア語で、曲のしっぽ、終わりを意味する言葉でもあるのだが、それは次の曲への始まりでもあるっていうことをそこはかとなく感じさせる終わり方、からのこの曲。完璧でしょう。


さ〜て、次回、2022年2月8日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『ノイズ』となりました。なんか、久々の邦画豪華キャストものが課題作になった感じがします。映画館で予告を見ている時点でハラハラしていたこの作品。あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す!

『スティルウォーター』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 1月25放送分
『スティルウォーター』短評のDJ'sカット版です。

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アメリカ、オクラホマ州にある街、スティルウォーターで石油掘削の作業員だった中年男性ビル・ベイカー。油田の閉鎖にともない、現在は日雇いで働いている彼が飛行機に乗って向かうのは、娘アリソンがいるフランス、マルセイユ。彼女は留学中にガールフレンドを殺害した罪に問われ、9年の実刑判決を受けて服役すること5年。面会をすると、無実だというアリソンは、弁護士への手紙をビルに託すのですが、その弁護士には取り合ってもらえず、彼は5年前の事件の真相を探ることに…

スポットライト 世紀のスクープ (字幕版)

製作と監督、共同脚本は、『スポットライト 世紀のスクープ』でアカデミー賞作品賞脚本賞を獲得したトム・マッカーシー。フランスの脚本家コンビと一緒に書き下ろした脚本をもとに、オールロケで撮影を行いました。ビルを演じたのは、マット・デイモン。娘のアリソンに扮するのは、『リトル・ミス・サンシャイン』のアビゲイル・ブレスリンです。
 
僕は先週木曜の午後、TOHOシネマズ二条で鑑賞いたしました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

マルセイユというのは、何度となく映画の舞台になってきた街で、特にスリラー、サスペンス、犯罪ものとの相性がいいんですよね。紺碧の海、今回も出てきた自然の造形美が楽しめる切り立った岩に囲まれた入り江のかランク国立公園がそばにありながら、大都市で港町だけあってたくさんの人種が入り混じって暮らす独特の喧騒と活気がある。マッカーシー監督は、たくさんの画家や映画監督を魅了してきたマルセイユの光を捉えたいと、今回も日本人撮影監督の高柳雅暢(まさのぶ)とタッグを組んで、オールロケにこだわり、手持ちカメラを多用する躍動感のある映像をものにしました。実際のところ、映画の大半はマルセイユが舞台なんですが、それを大きくサンドするのが、オクラホマのスティルウォーターです。ギュッと人口密度が高くて、海辺から高台まで、起伏に富んだ地形のマルセイユと正反対で、だだっ広い荒涼とした景色が広がります。人もまばらで、動きがない。最初なんて、ハリケーンで被害を受けた住宅の片付けをしてますから、ビルは。そんな彼の淡々とした孤独で、のちのちわかってくる落伍者としての贖罪の日々を、カメラはじっと固定で見つめます。町の名前、動かない水、Stillwaterのようにカメラも動かない。

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© 2021 Focus Features, LLC.
今作はマルセイユという街そのものがもうひとりの主役であるように映されますが、それはあくまで、スティルウォーターが最終的にどう見えるか、見え方がどう変わるのか否かというフリにもなっています。つまり、マルセイユを舞台にしつつも、これはそこで異邦人として過ごすアメリカ人の話であり、アメリカ社会のひずみがテーマになっているという作品なんです。外国に出ることで、日本のことがそれまでとは違って見えるようになったってのはよく聞く話だし、僕にも経験があります。要は井の中の蛙大海を知らずってことです。アメリカには、外国に興味がない人たち、パスポートを持たない人たちも多いと言いますが、ビルだって、娘のアリソンが留学することがなければ、きっとそうだったでしょう。そして、アリソンは、仕事に失敗して人生から滑り落ちていったかつての父親から、そして自分の性的少数者としての保守社会での居心地の悪さから、つまりスティルウォーターにおける自分の境遇と将来の見通しの悪さから、ここではないどこかを目指して飛び出したアマガエルだったんです。

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© 2021 Focus Features, LLC.
ところが、アリソンは今獄中にいる。ガールフレンドとの痴話喧嘩のもつれとされているけれど、アリソンはやっていないという。では、誰が。ビルが独自に動き出すわけですが、まぁ、大変です。フランス語もできなければ、土地勘もない。そもそも能力もない。とにかく娘を牢屋から自由にできればそれでいいのだという執念だけがある。リュックを片側だけ下げて、ジーパンにシャツをイン。髭をたくわえて、サングラスにくたびれたキャップ。クマが徘徊するような絵面でビルは港町を歩きます。触れ込みとしては、サスペンス・スリラーですから、細い糸を彼が手繰り寄せて事件の真相に迫るってことなんですが、実は事件の犯人やその動機が解明されれば一件落着ってことではないというか、まずビルひとりの手には負えない話なんですよね。この作品では、マット・デイモンはスパイのジェイソン・ボーンではないんです。社会でも家庭でも失敗し、そこから立ち直ろうとしている途中にある、アメリカン・ドリームを見ることもないアメリカ人中年男性です。

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© 2021 Focus Features, LLC.
そんなビルが、マルセイユで、地元の小さな女の子や、その母親と出会い、ふたりの協力を得ながら、あるいはふたりを時に助けながら、「こんなのはじめて〜!」をたくさん経験することになります。アメフトじゃなくて、サッカーもおもしろい。世界にはいろんな人がいる。フランス語も少し覚えてみる。演劇というものを初めて観る、などなど。殺人事件の真相と関係なさそうだけれど、実はなんならこうしたシーンの数々が、ビルのこれまでとその変化を巧みに描写していて、それがラストの感慨につながります。
 
無駄な描写も会話も回想シーンもないソリッドな語り口なのにわかりづらいところなど何ひとつなく、意見や世界観の押しつけもないのに、僕たちの視野と見識を広げて感動させてくれるうえ、謎解きもキッチリする。役者陣の演技もスタッフの技術的な水準も極めて高く、ジャンルを更新するような新しさがある。文句のつけようがない傑作でした。
マルセイユを舞台に何度かカントリーが流れるんですが、特にこの曲がかかるタイミングは、
本当に束の間の安らぎ、幸せなシーンでした。いい選曲。

さ〜て、次回、2022年2月1日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『コーダ あいのうた』となりました。フランス映画『エール!』のリメイクですが、これがまた評判高いですね。聴覚障害者のファミリーにあって、唯一耳の聞こえる女の子が歌手を目指す物語。アカデミー賞でも有望ということで、良さげなんを当てました! あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す!

『こんにちは、私のお母さん』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 1月18放送分
『こんにちは、私のお母さん』短評のDJ'sカット版です。

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生まれてから大人になるまで、何をやってもしくじりばかり、たいていのことでしっかり母親の手を焼いてきた娘ジア。ある日、母親と一緒に交通事故に遭い、20年前の1981年にタイムスリップしてしまいます。そこで出会ったのは、まだ若く、自分を生む前の母親。母に迷惑ばかりかけてきたジアは、彼女をとにかく喜ばせたい。そして、ここで母親の人生を変えてしまおうと、目指せ玉の輿、恋のキューピッドになるべく奮闘するのですが…
 
中国の人気コメディエンヌであるジア・リンが、48歳で亡くなった自分の母親への思いをこめて書いて演じたコントを膨らませて映画用の脚本にして、自ら監督、そして自ら主演しました。他にも、中国屈指のコメディアンにして大スター、シェン・トンも、タイムスリップした81年、工場長の息子を演じています。
 
僕は先週木曜の午後、大阪ステーションシティシネマで鑑賞いたしました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

「世の中には間に合わない事があって、その最たるものが、親孝行である」とジア・リン監督は言っています。早くに母親を亡くした彼女なら、余計にそう思うでしょうし、実際に、それは後から取り返しがつかないことで、「孝行のしたい時分に親はなし」という川柳もあります。他にも、石に布団は着せられず、なんてのもありますね。半自伝的な話だし、自分で演じているジア監督は、生まれた時からでっかくて、その後もよく食べるのはいいのだけれど、元気が良すぎてやらかして、勉強はうだつが上がらないまんま大学生に。話は2001年、合格通知が届いたその祝賀会から始まるんですが、よせばいいのに、その通知書は友だちに頼んで作ってもらった偽造もの。パーティーも台無しです。ジアにしてみれば、母親に喜んでほしい一心だったんですが、完全に方向を間違えたところで、交通事故、からのタイムスリップです。

バック・トゥ・ザ・フューチャー (字幕版)

時間旅行をして、若い両親に出会うってことで、当然『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を思い出すわけですが、ジアの場合は、単純に空から落下して、地面に落ちる。なんなら、母親はその空から降ってきたジアの下敷きになるっていう、しっかりここもコメディー仕様になっています。だって、やがて現代に戻ろうとする時も、「え? それ?」っていう行動にジアが出るので、笑えるんですが、そこは描写しないでおきましょう。

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ユニークで僕が興味深く鑑賞したポイントはふたつあって、ひとつめは、1981年の中国の様子です。もちろん、ばりばり共産主義だし、当時は改革開放政策の中で市場経済を立て直していた時代。ジアが関わりを持つ若者たちもみんな工場労働に精を出していました。管理された社会だし、情報は統制されているし、工場を中心とした街は決して裕福ではないけれど、それなりに牧歌的で楽しそうです。80年代初頭と聞いて思い浮かべる様子とはずいぶん違います。まだテレビは各家庭にないし、娯楽にも乏しい。僕ら日本の観客には伝わりづらい小ネタもたくさんあるんだなってことはわかる、中国の人には懐かしいムードですよ。だから、印象としては『ALWAYS 三丁目の夕日』的な感じで、ノスタルジーむんむんの僕にしてみれば苦手なやつかと思いきや、そもそも知らない世界だから、面白いんです。何より、ジアが観客を案内してくれるような格好ですからね。そして、何より、この映画の目的は、若かりし母親を、やがて母になる人としてではなく、その青春を描くことでもあるんです。原題は、「こんにちは、リ・ホワンイン」と、お母さんの名前が入っていますから。そんな母の青春をより楽しくしたい。現代で叶わなかった親孝行を、過去に戻った今やりとげたい。たとえ、自分がそれによって生まれなかったとしても。ってことであれやこれやとハッスルする様子は、ギャグも散りばめられていて笑えるんだけれど、正直、笑いの取り方に古臭いところはあるし、外見で笑いを取るのもなんだかなぁと思うこともありました。それも81年当時のスタンダードの再現なのかもしれないけれど。

ライフ・イズ・ビューティフル (字幕版) カメラを止めるな!

 と、ここで興味深く鑑賞したポイント、ふたつめは、そうした古臭さやタイムトリップだからってご都合主義が多すぎるんじゃないかと思えた展開を、すべてカッコに入れてくくった上で相対化してしまう脚本の構成です。ラスト20分の流れには、思わず僕も落涙。笑いと涙の混じり合う様子は、僕はベニーニの『ライフ・イズ・ビューティフル』を連想しましたが、とにかく怒涛の畳み掛けで、それまでの2時間弱を相対化するというか、『カメラを止めるな』的に、見え方がまるっきり変わる体験をすることになります。これにはやられました。「親の心子知らず」と言いますが、僕たちはそれぞれに主観で世界を認識しているわけで、いくら肉親であっても、その心のうちはわからない。わからないからこそ、通じ合った時の喜びはひとしおなわけで、その種の体験・仕掛け・伏線回収にへなへなになります。あのオープンカーも、まさかここでこんな形で意味が生まれるとは… ジア・リン監督、お見事でした。

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誰しもが親のことを思い出し、考え、同時に子や孫がいるなら、そのことも考えるような、とても普遍的なヒューマン・コメディ。中国の当時の風俗を垣間見る興味深さもあわせて、とても有意義な映画体験となりました。
映画の中では、中国の歌もいくつか流れて、これまた楽しかったんですが、ここでは作品の余韻を疑似体験いただけるかなと、日本語で、AIがこれも自伝的にお母さんに向けて歌ったこの曲をオンエアしました。

さ〜て、次回、2022年1月25日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『スティルウォーター』となりました。大作目白押しの中、渋い1本が当たったという印象もあるかもしれませんが、なんといっても『スポットライト 世紀のスクープ』のトム・マッカーシー監督がマット・デイモンとタッグを組んでいるわけですから、これも立派な大作ですよ。今回はマット・デイモン、どんな目に遭うのか。サスペンス・スリラーです。あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す!

『ボス・ベイビー ファミリー・ミッション』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 1月11放送分

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ボス・ベイビーが、兄のティムと繰り広げた、赤ちゃんvs子犬の戦いから25年。ボス・ベイビーは金融関係の会社のCEOになり、ティムは専業主夫として、仕事のできる妻、7歳の長女タビサと赤ちゃんの次女と幸せに暮らしていました。そこへボス・レディーなる人物が姿を現し、世界征服を企む悪を倒すよう、ボス・ベイビーとティムに指示をしたのですが…

ボス・ベイビー(字幕版)

監督・製作総指揮は、前作に続き、生みの親であるトム・マクグラス。音楽はハンス・ジマーとスティーヴ・マッツァーロの師弟コンビ。吹替版のキャストは、ムロツヨシ宮野真守多部未華子芳根京子となっています。
 
僕は先週火曜の昼、TOHOシネマズ梅田で吹替版を鑑賞いたしました。公開から時間が経ってスクリーン小さめだったとはいえ、かなりお客さんが入っていましたよ。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

見た目は赤ちゃんなのに、中身はおっさん。アカデミー賞にもノミネートした前作を、僕は2018年3月末にラジオで評しています。そこではまず、ドリームワークスというスタジオ全体の方針を紹介しました。「ディズニーは、子供と、大人の中にある子供心に向けて映画を作るが、ドリームワークスは大人と、子供の中にある大人心に向けて映画を作る」というもの。ボス・ベイビーはそのコンセプトを象徴するような作品で、技術にも作劇にも多少のアラはあるものの、ワーク・ライフ・バランスの問題や他者とどう向き合うかという、実はそれこそ大人っぽいピリリとくるトピックを扱いつつ、しっかりジンとくるような映画になっていて、結構評価したんです。その後、TVシリーズも作られ、日本ではEテレでも放送され、こうして続編もあり、人気を博しているのはご承知のとおりです。
 
設定が突飛でユニークなだけに、テレビ向けのエピソードはそのバリエーションで色々エピソードが作れるのはよくわかるんですが、長編映画となると、今回はどんなでっかい話になるのかと思ったら、まず驚いたのは、まさかの舞台が25年後っていうこと。しかも、ティムが専業主夫になっているという今どきの攻めた設定でいきなり飛ばしてるなと思ったら、ボス・レディーが登場。早速、性別分業への異議を唱えたかと思えば、普遍的な兄弟愛、家族愛がやはり軸になるという、テーマの柔軟性に惹かれました。

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(C)2021 DreamWorks Animation LLC. All Rights Reserved.
前作同様、これはトム・マクグラス監督のお兄さんへの気持ちも作品の原動力になっています。曰く、自分に映画の作り方を教えてくれた兄が、若くして家族を持って故郷にとどまり、弟である自分が映画業界でバリバリやりながら家族を持たずにいる。本作では兄と弟がテレコになっていますが、対称的な兄弟の人生をテーマにしつつ、今回のポイントは、そこにティムと娘のタビサの親子愛を盛り込むというツイストもきかせています。設定は相変わらず強引ではあるものの、うまいなと舌を巻きます。
 
そして、目と眉毛でここまで感情が表現できるのかというキャラクターの動かし方と、絵のトーンの変化にも目を見張りました。これも前作同様、3DCGの中に古き良き2Dのタッチを物語的に意味のある形で混ぜ込んでくる手法も見受けられます。簡単に言えば、現実と空想で変化をつけるわけですけど、音楽の使い分けとも連動させながら、この手法を一段進化させていました。

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(C)2021 DreamWorks Animation LLC. All Rights Reserved.
惜しむらくは、少々味つけが濃いことですかね。キャラクターもそれぞれ濃ゆいし破天荒だし、ドタバタのギャグやアニメらしい物理法則を無視した動きが濃密すぎて、物語の実は繊細でもある感情の流れをぶった切ってしまっている印象は拭えません。とはいえ、しっかり最後はジンときて、また笑ってと、うまいです。ディズニーのコンテンツ一人勝ち状態が続く中、カウンターとしてのドリームワークス、その今や看板のひとつ、ボス・ベイビー、僕は引き続き推したいところです。家族で観に行ったら、きっと親世代、祖父母世代の方が目頭を熱くすることでしょう。
前作同様、遊び心満載で音楽をよく理解しているサントラには、ハンス・ジマーのオリジナルに加え、Run DMC、ハリー・ニルソン、Enyaトーマス・ニューマンなど並んでおりますが、ここではSalt-N-Pepa, Push Itをオンエアしました。


さ〜て、次回、2022年1月18日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『こんにちは、私のお母さん』となりました。中国映画で、コメディーで、なおかつタイムトリップもの。中国映画に明るくない僕なので、うかつなことは言えませんが、これは僕たちにとっては新しい映画体験になりそうな気がしています。コメディーと言いつつ、思わず落涙しそうな雰囲気もありますね。あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す!