京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

『Mank/マンク』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 8月10日放送分
『Mank/マンク』短評のDJ'sカット版です。

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1941年に公開された映画『市民ケーン』。製作、監督、共同脚本、そして主演を務めた、当時まだ20代半ばのオーソン・ウェルズから脚本の依頼を受けた人物、ハーマン・J・マンキーウィッツです。彼はケーンのモデルとなったメディア王ウィリアム・ランドルフ・ハーストとも交流があったんです。この映画は、マンクがいかにして『市民ケーン』の脚本を練り上げたのか、その誕生秘話を描きます。
 
監督は『セブン』や『ファイト・クラブ』で知られる名匠デヴィッド・フィンチャー。脚本は、そのデヴィッドの父でジャーナリストだったジャック・フィンチャー。90年代に既に書かれてはいたものの、舞台となる1940年代当時のハリウッドの様子を当時の技術をベースに映画化したいと目論んでいたデヴィッド・フィンチャーのこだわりから、なかなか撮影にいたらず、今回ネットフリックスからの「何か映画にしたい企画はありますか」との提案を受け、ついに日の目を見ました。マンクを演じるのは、ゲイリー・オールドマンです。
 
日本での劇場公開はアメリカの翌週で、2020年の11月20日。その後、ネットフリックスで12月4日に世界同時配信されました。第93回アカデミー賞では、作品賞・監督賞・主演男優賞など、最多10部門ノミネートとなり、撮影賞と美術賞を獲得しました。僕は先週、木曜と土曜、自宅で、もちろんネットフリックスで結局2回観ることになりましたそれでは、今週の映画短評、いってみよう。

まずは『市民ケーン』のことを軽くまとめておきましょう。映画史における金字塔と言われるこの作品は、演劇やラジオの演出で注目を集めていた、公開当時25歳のオーソン・ウェルズが初監督したもので、それまでのハリウッドの常識を一変させたことで今もなお高く評価されています。僕も大学での映画論の授業で習いましたが、画面の手前から奥まですべてにピントを合わせたような奥行きのある構図、パンフォーカスという手法は、当時の照明やカメラ技術では難しかったものだし、床に穴を開けてまでカメラ位置にこだわったというローアングルは、天井まで作ることの少なかったセット撮影のあり方も一変させました。あとは、ワンシーン・ワンカットと言われる長回しの手法などなど、その功績は枚挙にいとまがありません。そして、何よりも、その複雑なストーリーテリングの手法に驚かされます。
先ほどは渡辺貞夫の『ROSEBUD』をオンエアしましたが、「薔薇の蕾」という謎のワードを残して死んだメディア王ケーンとはいかなる人物であったのか、『市民ケーン』では、関係者の証言を片っ端から集め、その回想で実像を立体的に組み上げていくという語り口が採用されました。直接的に影響を受けただろうと言われるのが、1950年の黒澤明監督『羅生門』ですが、真実というのは単一の視点からではなく、複数の視点からこそ浮かび上がるものだという、映画というメディアの特性を活かしたスタイルだったわけです。ただ、当然ながら時間軸は行ったり来たりするし、下手にやるとグチャグチャになってしまう。『Mank/マンク』でも、オーソン・ウェルズに脚本製作を見張るように言われた代理人が「面白いし意義深いが、かなり複雑でわかりにくい」と指摘する場面があるくらいです。ただ、そこに若きウェルズの神がかった演出が加わることで、名作が世に出たわけです。

市民ケーン Blu-ray

僕はさっきこの『Mank/マンク』を二度観たと言いました。面白かったからってのもありますが、正直なところ、人物の関係性と時制が複雑でついていけない部分があったからです。というのも、デヴィッド・フィンチャーはこの作品において、さっき申し上げた『市民ケーン』的な語り口と撮影技法を、とことん踏襲しているんですね。当然モノクロだし、照明の当て方やシーンの切り替えなんかも含め、2020年の公開作でありながら、80年前のハリウッド作品を観ているような錯覚を覚えるほどです。物語の構造も、マンクが脚本を執筆している現在と、彼がケーンのモデルとしているメディア王ハーストやその愛人で俳優のマリオンと親交を深めていった過去のエピソードが入れ代わり立ち代わり出てきます。

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僕はもちろん『市民ケーン』は何度も観ているわけですが、ついつい映画の技法や権力に溺れて人生の意義を見失っていうケーンの孤独な生涯というテーマに気を取られるあまり、実在したハーストが映画の内容にいかに激怒して公開を妨害したかといった事情についてはほとんど知らなかったため、僕は観ていてちと混乱してしまったわけです。
 
ところが、もう一度観てみると、これがいかに傑作かとうなることになりました。マンクがなぜハーストをモデルにしたのか。その直接のきっかけは、1934年のカリフォルニア州知事選挙だったんですね。「カリフォルニアから貧困を無くす」をスローガンに掲げた社会主義者シンクレアが、当時の映画会社やハーストの大々的なメディア・プロパガンダによって完膚なきまでに敗れる様子を、マンクはその渦中でつぶさに目撃していたわけです。そこで、しがないアル中気味の脚本家であるマンクは、権力に一矢報いようと『市民ケーン』を書き上げていく……。

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メディア戦略を駆使した政治的、イデオロギー的、そして事実でっち上げなんて何のそののキャンペーンって、その後僕たちが何度となく見聞きしてきたものだし、今もなお続いているものですよね。そう考えてみると、マンクが劇中で自嘲気味に語るように、彼がいかにドン・キホーテだったかというのがよくわかるし、それを知らしめてくれたフィンチャー親子に僕は大きな拍手を贈ります。複雑な作品なので、あくまでこう観ると面白いよという紹介になった感もありますが、幸いネットフリックスでいつでも何度でも観られます。これから日本も衆議院選挙を控えています。この作品を今観る意義は大アリ! ぜひ、あなたもご覧になってください。
サントラも1940年頃のハリウッドの雰囲気をトレント・レズナーアッティカス・ロスのふたりが果敢にも再現していて素晴らしかったです。そんな中で挿入されるジャズをオンエアしました。

さ〜て、次回、2021年8月17日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『キネマの神様』となりました。松竹映画100年を記念して、山田洋次監督が完成させたもの。志村けんの遺志を沢田研二が受け継いでっていう流れもありました。映画館でしっかり観てまいります。あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す!