京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

映画『キネマの神様』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 8月17日放送分
『キネマの神様』短評のDJ'sカット版です。

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ギャンブルとアルコールに依存し、長年連れ添った妻淑子に迷惑ばかりかけて身を持ち崩している老人のゴウ。借金も作っていて、その督促が娘の職場にまでいく有様です。淑子と娘はよくよく考えた末、ゴウの年金などを家庭内で差し押さえ、ゴウには好きだった映画を観て暮らすように勧めます。ゴウが向かったのは、旧友のテラシンという男が支配人を務め、淑子もパートとして働く名画座。スクリーンに映った古い日本映画は、ゴウがかつて助監督を務めた作品でした。

キネマの神様 (文春文庫) キネマの神様 ディレクターズ・カット

松竹映画100周年記念作品として製作されたこの作品。原作は原田マハの同名小説。監督の山田洋次が、コンビとしてきた朝原雄三と共同で脚本を書きました。現代のゴウを演じるのは、急逝した志村けんに代わって沢田研二。若き日のゴウは菅田将暉が担当しました。他にも、永野芽郁野田洋次郎北川景子寺島しのぶ小林稔侍、宮本信子リリー・フランキーなど、錚々たるキャストが揃い踏みです。
 
僕は一昨日、終戦記念日の日曜日の早朝、MOVIX京都で観てきました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

志村けんさんの遺志を受け継いだ沢田研二さんの演技や、とある演出に思わず涙した。映画讃歌としての描写の数々にグッときた。知らなかった日本映画全盛期の撮影所の雰囲気や現在の名画座の事情に興味を持った。ほとんど見えなくなっていた家族の絆を顕にする再生物語として思わず涙した。本作を好意的に観る人たちの意見はざっとこんなところだろうと思います。逆にまったくといっていいほど、ノレなかったという人もいる。リスナーの感想も、世間の評判も結構割れている印象です。
 
どうしてそうなるのか。否定派のひとつのパターンは、原作とのあまりの違いにのけぞったということ。原田マハの小説では、まず過去パートがほぼないのに、映画ではむしろ過去のほうがウェイトを占めている。さらに、原田マハが実の父親をモデルにしたというゴウが小説ではあくまで映画好きであって、彼が夢中になるのは映画評の執筆なのに対して、映画版ではゴウはかつて松竹大船撮影所で助監督としてバリバリ働いていたという設定で、彼の書いたものはシナリオ。原作小説が映画ファンの視点だったのに対し、この映画では映画の作り手と映画館、送り手の話になっているうえ、小説にはなかった三角関係の恋愛まで盛り込まれている。これじゃまるで違うし、ほとんどオリジナルじゃないか。原作ではなく、原案だろうと。人気作家の小説でファンが多いだけに、ここで引っかかってしまうと、山田洋次監督の駆け出しの頃を踏まえた思い出話、自分語りに感じられて、そういうのを期待していたんじゃないだと楽しめなくなってしまう。監督は原田マハさんからモデルとなったお父さんのことをかなり聞いて脚本を書いたそうですが、確かに僕も設定が変わりすぎていて、忘れた頃に入る娘のナレーションもうまく調和していないと感じました。ツギハギの印象ですね。

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(C)2021「キネマの神様」製作委員会
否定派のもうひとつの感想のパターンとして、主人公ゴウのあまりに無責任な言動が、いくらなんでも承服できかねるというものがあります。確かにね。ギャンブルもアルコールも、こうした依存は治療が必要なんだっていうのは序盤で出てきますが、それにしたって、なぜゴウがこんな身の滅ぼし方をしてしまっているのかとか、妻淑子がなぜゴウを見捨てずにここまで来たのか、その描写がないか、あってもうまく機能していないため、ほんとただのダメ親父に堕してしまっているようにしか見えないんですよね。寅さんですら現代の感覚で見ればなんだかなぁって人がいるのに、ゴウの場合は風天でもない穀潰しじゃないかっていう声が出るのも仕方ないです。

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(C)2021「キネマの神様」製作委員会
僕もこうした否定派の考えに概ね賛同する一方、見どころもあったと思っていますよ。北川景子が演じた往年の名女優という設定の園子なんて、その佇まいや所作が見事だったし、清水宏監督をモデルにした映画監督を演じたリリー・フランキーの言動も「そういう調子だったんだろうなと」思わせるものでニヤリ。「役者なんかものをいう小道具」だというのは実際にそんな逸話が残っているし。他にも、勉強熱心な撮影所の映写技師テラシンの机の上には、イタリアの映画理論家アリスタルコの本があったり… 当時の松竹らしい人情ものメロドラマへの内部の若き映画人による批判とか、まぁなかなか楽しいです。って、そういうのがことごとく過去パートに多くて、それは原作にはないオリジナル部分なわけでして、原作未読の僕としてはもっと過去の映画作りの現場を観たかったし、原作ファンは脚色過多だとなる。すると、過去と現在をつなぐ恋愛三角関係の導入も、脚本の小道具に見えてきてしまう。悪循環です。

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(C)2021「キネマの神様」製作委員会
コロナうんぬんの前に、この小説と松竹映画100周年をドッキングした企画のスタート地点から、だんだん物語の骨格がずれていったと推測されます。見どころは、色々とあるものの、現在と過去で描いたものを、まったく別々の作品として結実させてほしかったと、僕は今考えてしまうのです。

テラシンの若い頃を演じた野田洋次郎、好演していました。映画の中で互いに称え合っていたゴウとの、現実でのコラボといった様相を呈する主題歌、うたかた歌、お送りしました。 

さ〜て、次回ですが、僕が夏休みを取るということで、再来週になります。2021年8月31日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『ドライブ・マイ・カー』となりました。ハルキスト、いやさ、ハルッキアン、要するに村上春樹を愛読する者として、あの濱口竜介監督が映画化をするという一報を受けて以来、鑑賞を楽しみにしていた作品。カンヌでの脚本賞もありましたね。そして、番組で監督にインタビューすることもかないそうな気配です。ぜひ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す!