FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 3月29日放送分
『パワー・オブ・ザ・ドッグ』短評のDJ'sカット版です。
ベースとしては西部劇。1920年代のアメリカ、北西部、内陸にあるモンタナ州です。大きな牧場を受け継いだフィルとジョージの兄弟は、まるで異なるキャラクターの持ち主。フィルは典型的なカウボーイで、威厳はあるが高圧的なこともしばしば。ジョージはおとなしく紳士的で、フィルに何を言われても怒りません。そのジョージが未亡人のローズと結婚することになったのですが、フィルはそれも気に入らず、そこへローズの線が細くて学のある息子ピーターも絡んでくることで、人間関係は徐々に変化していきます。
原作は、トーマス・サヴェージが1967年に発表した同じタイトルの小説で、今回の映画化に伴い、初めて角川文庫から邦訳が出ました。共同製作、監督、脚本は、『ピアノ・レッスン』でカンヌ国際映画祭、女性として初のパルムドールを受賞したジェーン・カンピオンです。フィルを演じたのはベネディクト・カンバーバッチ。ジョージをジェシー・プレモンス、ローズをキルステン・ダンスト、そしてピーターをコディ・スミット=マクフィーが演じました。
去年のヴェネツィアでは最優秀監督賞にあたる銀獅子を獲得し、昨日発表されたアカデミー賞では、作品、監督、主演男優、助演男優、助演女優、脚色など、なんと最多の12ノミネートを果たし、監督賞をジェーン・カンピオンが受賞することになりました。
僕は先週水曜日に、自宅のテレビ、Netflixで鑑賞してました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。
昨日の監督賞も納得という見事な演出だったと先にお伝えしておきます。まず前提として、ガチガチの西部劇な物語にジェンダーという現代的なテーマを見出して、今映画にしようとしたジェーン・カンピオンの脚色、台本があっぱれです。加えて、スクリーンいっぱいに広がる、美しく畏怖の念を抱かされる自然描写のすごさ。レディオヘッドのギタリストであるジョニー・グリーンウッドのメロディーよりもリフのような繰り返しで雰囲気を醸す音楽。そして、実に4人もがアカデミー賞にノミネートした俳優陣のキャスティングと期待に応えた演技。これらすべてがあいまって、映画的な魅力がムンムンに満ちた風格のある1本になっています。娯楽映画として最大公約数を狙うことをますます義務付けられている印象の拭えないハリウッド大作とは違い、ある種嫌われることを厭わない踏み込んだ表現が許容されるNetflix映画との相性も良かったのかもしれません。
具体的に触れていきましょう。カンバーバッチ演じる主人公のフィルは、「男性らしさ」を尊ぶ典型的なマチズモの体現者として登場します。カウボーイそのものという出で立ちと、威勢のいいリーダーとしての振る舞い、そして女性や彼が軟弱とする男性をかなり荒っぽい言葉でコケにする人物で、牧場経営者の息子としての権力と、伝説のカウボーイの自分こそ正統な後継者であるという人脈を笠に着ています。そして、風呂嫌いです。笑っちゃうくらい、風呂嫌いです。
対する弟のジョージは、そんなフィルにからかわれた未亡人のローズとその息子ピーターに慈愛の精神で接するばかりか、なんとまぁ、あっさり自分の家族にしてしまいます。え? そこまで?ってくらいにびっくりな展開でしたけど、ジョージがローズを文字通り包み込むようにして愛を育む様子はこの映画の数少ない心安らぐシーンでした。
そんな対称的な兄弟のせめぎ合いで話が進んでいくのかと思いきや、実はそうじゃないというか、思っていた流れを逸脱していくのがユニークなところです。ここで時代を思い出しておきたいんですが、1920年代なんですよね。つまり、もう西部開拓時代ではありません。フロンティアはなく、野心と拡大の歴史の縁(へり)を彼らは生きています。かつての希望も夢も消えかかった状態なんですね。だからこそ、もうこの世にはいない偉大なる先輩の名前ばかり出しては偉そうに振る舞うフィルの言動には痛々しさがあります。と同時に、途中で明らかになる彼のマチズモの裏にある性質を僕たちが垣間見てからは、フィルが抱えてきた絶対的孤独も浮かび上がるんですね。なぜ彼は男性らしさにそこまで固執するのか、明らかになるのが、風呂嫌いの彼が人知れず水浴びをするタイミングだというのも示唆的でうまいです。
一方、カウボーイらしからぬジョージは、おそらく将来のことを考えて政治家に取り入ったりなんだりと奔走するのだけれど、結果として妻のローズをあの荒野に置いてきぼりにする時間が増え、彼女はやはり孤独から抜け出せません。やさしいのは良いんだけど、ローズの寄る辺なさの本質を捉えきれておらず、彼女を守りきれていないことに気づけない、あるいは気づいてもなすすべもないというジョージの限界が見て取れます。
ここで、ここまで名前をあまり出していなかったローズの息子、ピーターが映画冒頭、1人称のナレーションとして発した言葉が意味を持ってきます。要約すれば、父親が亡くなって、母を守るのは自分であると。ただね、守るって言ったって、意志は強そうだけど、ひょろひょろしていて、髪型もおよそ西部的ではなく、折り紙とデッサンを愛し、医学を志しているんです。まぁ、守るったってせいぜい寄り添うというぐらいなんだろうなと思っていたら、母親を突き放すような場面もあったり… どうも、ちぐはぐな人間関係がぐるぐる巡っているんですが、実はそれはフィルがずっと編んでいる革製のロープのように、計算されたものでもあってと気づいた時には、もうこの映画の魅力にしっかりとロープでくくりつけられてしまいます。
滅びゆく西部の世界にこびりついて終始離れない死の気配。どんな時代と場所であっても、ひとつの価値観によって押し付けられていたとしても、その実、存在する人間の多様性、特にこの映画では性的な面にスポットがあたります。残虐な場面やセクシャルな場面などほとんどないのに、濃厚に画面を覆う性と死、エロスとタナトス。そして、耽美的なほどの美しさがスクリーンから観客を支配します。
パワー・オブ・ザ・ドッグという言葉は、劇中に出てきますが、旧約聖書の引用で「剣と犬の力から、私の魂を解放したまえ」という意味。武力・暴力や、邪悪な人間の差別構造から、解き放ってほしいという願いを指していると思われます。その願いは果たされるのか、また果たされるとすればいかにして。それがこの映画の突きつけるテーマであり、虚しさであり、怖さなんですね。目が離せない最後の最後に、僕は恐怖と切なさを覚えました。心動かされるとともに、いつの時代も僕たちに絡みつく負のロープを解くことの難しさを感じたからです。そのキツさを受け入れがたい人もいるでしょうが、ミステリー、サイコ・スリラーとしてもゾクゾク楽しめる娯楽作にもなっています。ジェーン・カンピオン、久々の長編映画にして、堂々たる怪作をものにしました。
さ〜て、次回、2022年4月5日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『ナイトメア・アリー』となりました。ブラッドリー・クーパーがかっこいいし、予告編を観ていてもすごい画面の連続でワクワクする、ギレルモ・デル・トロ監督作品。オスカーは逃しましたが、どう考えたって見ごたえあるでしょう。鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す!