京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

『マイ・ニューヨーク・ダイアリー』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 5月17日放送分
『マイ・ニューヨーク・ダイアリー』短評のDJ'sカット版です。

90年代前半のニューヨーク。あのJ.D.サリンジャーを抱える老舗の出版エージェンシーで働くことになったのは、作家を夢見る西海岸出身のジョアンナ。まだ見習いということで、ボスのマーガレットの助手として、手始めに、サリンジャーあてに届く大量のファンレターへの対応を命じられます。ある日、会社で電話を受けると、その向こうで彼女に話しかけたのは、サリンジャーその人でした。

サリンジャーと過ごした日々

原作は、ジョアンナ・ラコフの自叙伝『サリンジャーと過ごした日々』。監督と脚本は、カナダ出身のフィリップ・ファラルドー。ドキュメンタリーから映像業界に入って、有名なのは学校を舞台にした『ぼくたちのムッシュ・ラザール』(2011年)ですね。あとは『グッド・ライ いちばんやさしい嘘』も良かったです。文化や世代のギャップを人がどう埋めていくのかを描かせるとうまい監督だと思います。

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 主役のジョアンナを演じたのは、『ナイスガイズ!』や『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』で注目を浴びたマーガレット・クアリー。ジョアンナのボスであるマーガレットに扮したのは、シガニー・ウィーバーです。

 
ニューヨークには行ったことはない左京区民、サキョーカーの僕は、今回はメディア関係者の試写で鑑賞しました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。


オリジナルのタイトルは、本も映画も『My Salinger Year』です。それが、日本での翻訳本は『サリンジャーと過ごした日々』と名を変え、映画では『マイ・ニューヨーク・ダイアリー』となっています。この邦題に違和感を覚える人が多いようで、言われたい放題だなと思っていますが、違和感の正体として、主人公ジョアンナは日記を書いていないし、サリンジャーとの関わりが大事なポイントだし著名な作家なのに、なぜ省いてしまったのか、という2点が挙げられます。それもよくわかるんですが、僕がひとつ擁護するなら、残るマイ・ニューヨークっていう言葉は僕は的を射ているような気もするんです。これは、ひとりの若い女性が、夢を持ちながら憧れの街で恋に仕事に奮闘するという意味では普遍的だし、あちこちの時代と場所に置き換え可能でしょうが、それが90年代半ばのニューヨークでないと描けない要素に満ちているんですね。

9232-2437 Quebec Inc – Parallel Films (Salinger) Dac (C) 2020 All rights reserved.
ジョアンナはニューヨークを旅行中に、街そのものに憧れたわけです。少なくとも彼女にとっては世界の文化の中心と言えるマンハッタンの佇まい。そして、若者が多く集まるようになり、夢を育むのに最適な刺激あふれるブルックリン。20代の彼女が、自分の人生を決定づける大事な時期を、ここで過ごしたいと思える空気と仲間がそこにあったわけです。ファラルドー監督は、だからこそ、限られた予算の多くを映画セットに費やしました。加えて、インターネットやパソコンが登場してはいたものの、ジョアンナが務める出版エージェンシーのように、紙媒体にこだわり、文書作成もタイプライターで行うことに固執することがまだぎりぎり可能だった90年代独特の時代感が物語にも大きな影響を与えていることも見逃せません。その意味で、この映画は確かに、「90年代ニューヨークにおけるジョアンナの大切な日々」なんですね。

9232-2437 Quebec Inc – Parallel Films (Salinger) Dac (C) 2020 All rights reserved.
でも、こう話すと、「それでも、サリンジャーが鍵になることは確かだろう?」と思われることでしょう。その通りです。彼と話す機会に恵まれたことが、彼女の人生を左右しますから。でも、興味深いことに、ジョアンナに与えられた仕事は、隠遁生活を送っていたサリンジャーにコンタクトを取ろうとするファンたちから、彼を守ること、つまり彼を世間から隠す助けをすることなんですね。具体的には、世界中から大量に届く、老若男女の読者からのファンレターに、「著者は手紙を読みません」といった紋切り型の返信を出すこと。ただし、中身には一応目を通すことを命じられます。作家を目指すために出版業界に進んだジョアンナにとって、クリエイティビティのまったく求められないこの業務は、かなりきついですよね。言わば仕事の洗礼ですが、そこでふてくされずに意義を見出したり工夫をこらしたりすることが肝要であるはず。彼女は図らずも、実践しました。この映画では、サリンジャーその人の姿は基本的に出てきませんが、手紙を書くたくさんの名もなき読者がカメラに向かって話をする演出がなされています。そんな読者の多様な想いのこもった文章の読者になることことが、現代作家に疎くて実は未読だったサリンジャー作品を読むことにも繋がったり、調子に乗って出過ぎた真似をしてしまったりする。そのひとつひとつの経験が彼女のその後の血肉になります。サリンジャーを世間から隠すことが、彼女の人生と才能と可能性を顕にさせるという意味で、監督もインタビューで語っていることですが、これはサリンジャーではなく、ジョアンナの物語なんです。なので、総合すると、僕はこの邦題『マイ・ニューヨーク・ダイアリー』も、芯を食っているなと感じます。

9232-2437 Quebec Inc – Parallel Films (Salinger) Dac (C) 2020 All rights reserved.
マーガレット・クアリーは、迷いながらもがきながらも着実に自己形成していくジョアンナをハツラツと演じていました。90年代のニューヨークでないと成立しない映画なんだと言ったことと矛盾するようですが、現代女性が自前の人生を切り開いていく「仕事もの」として普遍的でもあります。夢と仕事、あるいは、恋愛や友情と仕事の関係についても、今の日本にもストレートに反映されるようなエッセンスがそこかしこに散りばめられています。シガニー・ウィーバーが強さの中にふとジョアンナにだけ見せた実は脆く繊細な表情にも感じ入ってしまいます。ファラルドー監督の確かな映像さばきを味わえる、すがすがしい1本です。
サントラから、ピックアップしたのは、アメリカのシンガーソングライター、ケイティー・ヘルツィヒのBeat of Your Own。歌いだしで、あなたはどこへ行くの? 何になりたいの?と聞こえるあたり、フィットしているなと思いました。彼女がしだいに自前の人生のビートを刻んでいけるようになる成長物語でしたしね。

さ〜て、次回、2022年5月24日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『ドクター・ストレンジ マルチバース・オブ・マッドネス』となりました。当たった瞬間に、ついつい「面倒なのがきた」って口走ってしまいましたが、それは評するのが大変そうということであって、ワクワクはしているんです。僕としては久しぶりという感のあるマーベル。くらいついていこう。あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す!