京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 3月21日放送分

アメリカで暮らす中国系移民女性のエヴリン。長年営むコインランドリーの経営問題。老いた父親の介護。反抗期を迎えている一人娘。ここのところトラブル続きでいっぱいいっぱいのエヴリンですが、夫はやさしいのは良いものの頼りにはなりません。そこへ、別の宇宙からやって来たという夫に憑依された夫が言います。「全宇宙にカオスをもたらす強大な悪を倒せるのは君だけだ」。まさかと驚くエヴリンでしたが、実際に悪の手先に襲われてマルチバースにジャンプ。別の宇宙ではカンフーの達人である自分の力を得たエヴリンの全宇宙を舞台にした戦いが幕を開けます。

アベンジャーズ/エンドゲーム(字幕版)

と、公式サイトのあらすじをベースに補足してまとめたものの、作品を未見の人は何が何やらという状態だろうなというこのぶっ飛んだ映画を脚本・監督したのは、ダニエル・クワンダニエル・シャイナートの2人組ダニエルズ。プロデュースには『アヴェンジャーズ・エンドゲーム』のルッソ兄弟が名乗りを上げ、近年映画ファンの信頼を獲得し続けている人気スタジオA24が世に送り出しました。
 
主人公エヴリンをミシェル・ヨー、夫のウェイモンドをキー・ホイ・クァン、税務署員をジェイミー・リー・カーティスが演じています。本作は、第95回アカデミー賞で作品賞、監督賞、主演女優賞、助演男優賞助演女優賞脚本賞、編集しょうと最多7部門を独占した他、全世界興行収入1億ドルを超えるという人気を今まさに拡大中です。
 
僕は先週金曜日の昼にMOVIX京都で鑑賞してきました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

マルチバースという、わかるようでよくわからない概念、それこそ宇宙の星々のように無数にあるような並行世界というのは、SFではわりと昔からある設定ではあるものの、最近は浮世離れしきったマーヴェルなどのスーパーヒーローものの専売特許となっていた感がありますね。それを市民の、しかもマイノリティーであるアジア系移民のしがない女性、もっと言えば、旧来的ないかにもヒロイン然とした「美しき」女性ではなく、子どもがそろそろ自立するような年齢の女性のバタバタした日常の中に持ち込んだことがまずユニークですよね。地に足ついた、どころか、税金のこともあり、地に這いつくばるようにしてジタバタしている市民にマルチバースを接続したわけです。加えて、これも古くから物語の枠組みの中で繰り返しテーマになってきた人生におけるIFの話、つまりはあの時ああしていたら今とはきっと違った人生になっていただろうという後悔やノスタルジー、妄想の類をマルチバースと接続したこともダニエルズの功績ですよ。さらにもうひとつ、この枠組みで追加しておきたいのは、ダニエル・クワンさんの方が公言しているように、エヴリンのこうしたマルチな可能性を考えていく中で、彼女がADHD、注意欠陥・多動性障害の当事者であるという設定にしようかと思っていろいろ調べていたら、自分がADHDであることが明らかになったようです。この障害の精神世界の映像化ということも考え合わせると、マルチバースに接続した内容がまず豊かで画期的でした。

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確かにガチャガチャしてるし、マルチバースをジャンプしていく時の燃料あるいはきっかけとして、突拍子もない面白いことをすればいいっていう、あのもはや理屈をジャンプした笑いの要素は、ものによっては下品だし見た目にもなんじゃらほいだと、人によっては呆れたりついていけないというシーンもあるはずです。でも、そこで監督ふたりが表明していることはすごく頷けるものだと思うんです。誰だって本当は多面的な存在なんだということ。ちょっと違う方向に転べば、今とはまったく違う能力が開花していた可能性だってあるじゃないかということですよ。そんな可能性に思いを馳せることは、現状の自分を乗り越えていく大きな力になるし、何よりも僕は物語そのものに人間が託してきたことのひとつでもあると思うんです。映画を観て、劇場の暗闇の中で登場人物の誰かに感情移入をするっていうのは、それはすなわち現実では少なくとも今の自分にはできないことを擬似的に経験することでもあるわけだから。しかも、この作品はキャスティングが絶妙で、ミシェル・ヨーもそうだけど、キー・ホイ・クァンなんて特に映画業界に若くして表舞台に立って、その後は俳優業から離れたところからの大ジャンプを決めてのこのウェイモンドという役柄ですよね。それを知っている僕たち現実の観客は、あのキャラクターにキー・ホイ・クァンのキャリアを重ねるというメタ的な感動も覚えることになる。ウォン・カーウァイ作品、『レミーのおいしいレストラン』みたいなピクサー作品、『2001年宇宙の旅』『マトリックス』といった映画の引用も、マルチバースに組み込むことでまた味わいが増していると言えるでしょう。

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そして、こうした複雑怪奇で超スピーディーな展開でありながら、テーマとしては「Be kind.」、つまり「人に親切であろう」「人にやさしく」というシンプルにしてまっとうなものであるのも素敵です。カート・ヴォネガットからの影響が監督ふたりには濃いようで、なるほどこうしたテーマに着地するのはそのせいかとも思いますが、そこに拍子抜けしたり、テーマがとってつけたようだと批判する人もいるようです。僕はそうは思いません。前提として、今回象徴的に悪として登場するベーグルという食べ物の存在。あの輪っかの虚無の中へとキャラクターが吸い込まれそうになって危ないっていうことですが、さっき言った、人間の可能性は無限だと考えれば、翻って、今のこのしょうもない現実なんてどうでもいいんだと考えてしまうニヒリズムの象徴としての虚無、ブラックホールなんですよね。あれが効いてます。だって、あれがあるから、悟るわけじゃないですか。今のこの人生、たいしたもんじゃなかったとしても、いろいろ選んだ果てに今があるわけで、それを愛おしく思おうじゃないかと。ニヒリズムやあきらめよりも、理解し難い相手であっても受け入れて、一緒にいる。ひとつにはなれなくても、共存することをあれだけ回りくどく、でも結局はストレートに表明されると、なんか感動します。

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好き嫌いは大きく人によって分かれるだろうし、僕もここはノレないわっていう場面はありますが、なんたってそこはマルチバースなんで、きっとあなたの好きな描写もあるでしょう。そして間違えなく言えることは、発明に近いくらい革新的だし、バカげていてもクオリティーが超高いってことです。ご覧になってください。そして、京都ドーナッツクラブの僕としては、虚無のシンボルがドーナッツでなくベーグルだったことになんかホッとしています。
サントラもサントラで、気の遠くなる実験的なサウンドメイクをアメリカのトリオSon Lux(サン・ラックス)が手がけています。主題歌はデヴィッド・バーンも歌っていますよ。


さ〜て、次回2023年3月28日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『フェイブルマンズ』です。残念ながら今回のアカデミー賞ではほとんどスポットが当たらなかったスピルバーグですが、彼もエブエブの大躍進に微笑んでいる様子は素敵でした。満を持しての自伝的要素満載な作品に心躍ります。さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す!

『ワース 命の値段』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 3月14日放送分
映画『ワース 命の値段』短評のDJ'sカット版です。

2001年、9月11日に起きた、アメリ同時多発テロ。多くの犠牲者が出て社会が混乱する中、政府は早期に動き、遺族を救済する保証基金プログラムを発表します。特別管理人として主導することになったのは、調停のプロを自認する弁護士のケン・ファインバーグ。仲間と一緒に独自の計算式を作って補償金額を算出しようとしますが、批判も矛盾も噴出します。プログラム申請の期限までに目標とされる対象者80%の賛同を得ることはできるのか。

命に〈価格〉をつけられるのか

監督は、ニューヨーク大学大学院映画学科で修士号を取得し、現在はブルックリンに暮らすサラ・コランジェロ。脚本は『キングコング:髑髏島の巨神』のマックス・ボレンスタインが務めました。弁護士ケン・ファインバーグに扮したのはマイケル・キートン。遺族の中でファインバーグ批判を展開するチャールズ・ウルフ役を演じたのはスタンリー・トゥッチ。他にも、『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』でマイケル・キートンと共演していたエイミー・ライアンがファインバーグ弁護士の片腕カミールを担当しました。
 
僕は先週金曜日の昼にMOVIX京都で鑑賞してきました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

この映画の脚本をもし自分が書くとして、話の組み立てが難しいのは、あれから20年ほど経て、ましてや海外に住んでいる僕たちからすれば余計に知らなかった保証基金プログラムについて、その意図とシステムを知ってもらわないといけないという問題がまずあります。物語のスタート地点というか、ドラマが転がり始めるところまで、早めに観客を連れて行かないとしびれを切らしてしまうわけですが、これがまた事情が特殊かつ複雑で難しいケースなのに、その手際がまず良かったんです。セオリー通りいくなら、まず同時多発テロをファインバーグ弁護士がどう知るかっていうところから始めそうなものですが、違うんですね。冒頭のシーンで、彼は大学の教壇に立っていて、司法を学ぶ学生たちに考えさせているんです。若い人が不幸にも亡くなってしまったとして、その補償金額を生徒たちに議論させます。まさに邦題の副題になっている「命の値段」を検討させているわけです。この枕が効いています。この資本主義社会において、命は良くも悪くも経済的価値に換算されうる。それはとても辛いことだし、非情なことだけれども、そうでもしないと残された遺族は前に進めない。彼はこうも言います。「フェアに保証するのが目的ではない。終わらせて先に進むこと」であると。そこから物語は始まるわけです。

(C) 2020 WILW Holdings LLC. All Rights Reserved.
ただ、もうひとつセットアップで重要なのは、この後にも先にも例がない基金の目的です。動き出したのは、テロからわずか11日後。もし何千人もの人々が、航空会社などを相手取って訴訟を起こしたら、倒産する企業も出てくるだろう。今度はその企業の従業員たちも路頭に迷うことになり、社会はさらなる混乱に陥ってしまう。それはテロリストたちの思うつぼではないか。であれば、基金を作って、ある種お見舞い金を配ることで、混乱も政権へのダメージも抑えられる。そのためには、対象者の80%が同意してお金を受け取れば良かろう。こういう理屈なんですね。そこで白羽の矢が立ったのは、アメリカ有数の紛争解決手続きの専門家であり、民主党寄りでも知られたファインバーグです。当時はブッシュ政権共和党だったので、政府としては、彼を起用することで挙国一致のイメージを作れるし、失敗したとしても、リベラルのやったことだと切り捨てることができた。この辺の裏事情もさらりとわかりやすく手短に提示されるので、誰もがすんなり入っていけるんですね。

(C) 2020 WILW Holdings LLC. All Rights Reserved.
かくして、映画のゴールが決まりました。保証金申請率80%。締切は2年ちょい。こんなはっきり言って儲かりもしない汚れ役なんて断る手もあったわけですが、ファインバーグは国の一大事にある種の使命感を胸に、自信に満ち溢れた状態で部下たちに生涯年収の割り出しなどの指示を出していきます。その上で、経験に基づいて計算式を編み出していくんですね。ところが、5000人を超える被害者の中には、当たり前のことですが、多様な人々がいる。証券会社の重役もいれば、消防士もいる。移民もいれば、同性愛者もいる。ひとつの数式にこうした多様な人生を当てはめることで、不満が噴出します。
 
ファインバーグ氏の事務所のスタッフたちは、彼ら一人ひとりの事情を聞いていくんですが、興味深いことに、それがだんだんとセラピーのようになっていくんですね。遺された人たちにとって、お金も大事だけれど、前に進むために必要なのは、話を聞いてもらうことであるわけです。そして、僕たち観客は、それぞれのケースを聞きながら、あの日に起きたことを多面的に知ることになる。それは、表面的にショッキングで安易な回想シーンよりもずっと真に迫るものとして響きます。このあたりは脚本と監督の演出の合せ技として見事でした。
 
中盤では、話がどんどん広がり、目標の数値は上がらず、誰もが途方に暮れてしまいます。関係者全員が葛藤しているんです。そこで、もうひとつうまいなと思ったのが、家の建築を映画全体に並走させたこと。ファインバーグはそう遠くない将来の引退に先駆けて、田舎に家を建てていて、時折そこへ向かうんですね。様子を見に行く。事務所のホワイトボードに書かれた%の数字と同様、ゴールを可視化したものとしてこの道具立ては有効だったし、家という日常を送る装置が組み上がっていく様子はシンボルとしても重要な役割を果たしていました。

(C) 2020 WILW Holdings LLC. All Rights Reserved.
映像面での派手な演出はありませんが、ショットの一つ一つに細かい気配りがある。壁、ブラインド、犬、そして、登場人物の表情などなど。物語の転換点となるのは、ファインバーグが趣味であるオペラの観劇に向かうところ。彼はそこで気まずい思いをして、杓子定規で四角四面だった自分の基準を変更すべきではと考えます。でも、それは言葉としては表明されないんです。名優マイケル・キートンがアップで画面に映し出されたその顔だけで心境の変化を表現する。言葉にしなくても、僕たちにそれが伝わった直後、ファインバーグの数式に批判的だったウルフという人物と劇場で会って話をするところなんて、これまた名優のスタンリー・トゥッチとの演技合戦が見もので、ふたりとも声を荒げることなどないのに劇的なシーンになっていました。
 
この映画には今につながるたくさんの問題が提示されていて、もちろん80%という物語のゴールがすなわち社会のゴールでないこともわかります。映画は終わっても、それぞれの人生と社会はまさにmove onしていく。そのうえで大切なのは、人を動かすのは、誰かの誠実な姿勢なのだと静かに伝えているようで、僕はとても感銘を受けました。
 
曲はサントラからでなく、911の後に再び注目が集まって愛されたものを。

さ〜て、次回2023年3月21日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』です。先日の第95回アカデミー賞では、なんとなんと、主要部門をほとんどかっさらっていく7部門を獲得。とんでもない旋風を巻き起こした、この最先端カオス映画ですよ。日本での通称エブエブ。さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す!

映画『ちひろさん』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 3月7日放送分
映画『ちひろさん』短評のDJ'sカット版です。

風俗の仕事を辞めて海辺の街にやってきたちひろは、小さな弁当屋で売り子をしています。飄々とした彼女は、誰にも分け隔てなく接することで、大勢と関わっていきます。厳格な家でも学校でも息苦しさを覚える女子高生。シングルマザーの母親とふたり暮らしの男子小学生。父親との関係に悩みながら生きてきた青年。ホームレスのおじさん。入院している弁当屋の店長の妻。風俗店の店長、などなど。こうした交流を経て、ちひろにも次第に変化が訪れます。

ちひろさん 1 (A.L.C. DX) 

原作は、安田弘之の同名漫画。監督と共同脚本は、『窓辺にて』も最近評したばかりの今泉力哉。主題歌はくるりで、劇伴は岸田繁が担当しています。他にもこの作品の場合は、フードスタイリストの名前も出しておきたい。『かもめ食堂』『南極料理人』『深夜食堂』の飯島奈美が務めています。ちひろさんを演じたのは、有村架純。彼女が関わる街の人として、風吹ジュンリリー・フランキー、今泉映画のアイコン若葉竜也、まだ15歳ながら芸歴は14年ですばらしい演技を見せる豊嶋花などが脇を固めています。
 
僕は先週金曜日にNetflixで鑑賞してきました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

ちひろさんについて、ここ何日も考えています。『花束みたいな恋をした』に続き、また有村架純演じるキャラクターが脳内に居座っています。彼女って、あの海辺の小さな街のコミュニティに風のようにいつの間にかやって来て、それぞれバラバラに点在していた人たちをゆるくつなぐ触媒として機能するんですよね。語弊を恐れずに言えば、彼女は公園で野良猫と遊ぶのと同じような感覚で人に接します。やっていることは人助けのようにも感じられるけれど、おそらく彼女にはその自覚がない。やさしいことは確かにするけれど、肩入れして強く誰かを愛することはない。たまに誰かと性的な関係を持つことがあっても、そこには嘘はないけれど、強く持続的に愛するわけではない。ある種クールで突き放すところもありますよね。有村架純について、今泉監督はこんなことを言っています。「ある種の暗さや孤独について、ネガティブなものととらえるのではなく、それらの豊かさとか良さを大切にできる人だ」と。これはちひろさんの描写にもなっているし、彼女をキャスティングした理由にもなっていますね。ちひろさんは闇や孤独を人生の前提としてプリセットしているから、それらを過剰に恐れてもがいている人には時に厳しい態度も取るような気がするし、その一方で社会から孤立してしまっている人には手を差し伸べるキャッチャーの役割を果たしています。

©︎Netflix
そこで大事になってくるのが、名前だと思うんですよね。ちひろは彼女の本名ではありません。彼女が自分で自分のことをちひろと呼んでくれと発言している場面が出てくるし、その由来も劇中で明らかになりますが、なぜ別の名前を使うのか。作品では断片的にしか提示されない彼女の過去というのが関係しているように受け取れます。家族、どうやら母親との関係は一筋縄ではいかなかったようだし、かつてスーツを来て過ごしていた彼女は別人のようでした。親から授けられた名前が象徴する、かくあるべしと家族や社会に期待された、あるいは規定された人物像に彼女は自分がフィットしないと感じたのかもしれない。その結果として、ちひろという彼女にとって自由でかっこいい大人にふさわしい名前を借用することによってのびのびと生まれ変わることができた。でも、中盤くらいからちひろさんが自分のルーツと向き合う機会が増えていくんですよね。彼女がいつか、本当の名前を名乗ることができるようになるのが、彼女の物語のゴールなのかもしれないなんてことを思ったんですが、とても興味深いのは、それは彼女の物語であって、この原作漫画、そしてこの映画の物語ではないんですよね。あくまでちひろさんが立てた素敵な波紋の数々とその重なりが描かれて、波紋が消えるように映画は終わるんです。それが心地良いんです。

©︎Netflix
と、つらつら映画を観て考えたことを述べてしまいましたが、作りについてはまず脚本がよくまとまっています。さすがは群像劇のうまい今泉監督だけあって、下手すると空中分解しそうな話を過不足なく配置しつつ、言葉に頼り切っていないのに、セリフには力があるという絶妙なバランス。墓場でのほぼセリフのない場面で墓石にできた水たまりでひっくり返ってもがくアリをちひろさんが指先で救うショットなど、映像だけで何かを示唆するところなんてすごく巧み。シングルマザーのヒトミが息子のマコトと女子高生のオカジに焼きそばを食わせる場面なんて、是枝裕和ばりの演出だなと感心しつつ涙がこぼれたし、全体を通してフード演出も丹念に行われていました。ちょっとわかりやすすぎるかなという流れもありましたが、Netflixが強く打ち出す作品としてある程度ポップに仕上げるというところも意識されたのかなと思います。結果的に、有村架純はまた良作に出演して実力を発揮しましたね。豊嶋花の今後もますます楽しみになるという収穫も得ました。まだしばらくはちひろさんが僕の頭の中にステイしそうですが、きっと知らぬ間にいなくなって、半年後、あるいは1年後にまた「元気?」と顔を出しそうな気がしています。つまりは、とても素敵な作品だったということです。
 
せっかくなんで劇場で観たいという方は、心斎橋へどうぞ。イオンシネマ シアタス心斎橋で上映している他、24日からは京都出町座、4月2日からは兵庫のパルシネマしんこうえんでも上映されます。


くるりの主題歌も映画の余韻にすばらしい役割を果たしていました。途中であえて言葉を当てずにナナナで通す余白も、この物語にぴったりだと僕は感じています。

さ〜て、次回2023年3月14日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『ワース 命の値段』です。9.11を描いた映画もいろいろとありますが、僕は不勉強にも補償問題についてはまったく知りませんでした。モデルとなった弁護士のインタビューにも実は既に接していて、興味津々です。心して鑑賞しますよ。さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す!

『ボーンズアンドオール』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 2月28日放送分
映画『ボーンズアンドオール』短評のDJ'sカット版です。

1980年代後半のアメリカ、バージニア州の田舎町。生まれつき、人を食べてしまう衝動を抱えた18歳の女子高生マレンは、そのことを世間にひた隠す父親とふたり暮らしでしたが、友達とのお泊り会で騒ぎを起こしてしまいます。家を捨てて夜のうちに街から逃げる親子でしたが、朝目を覚ますと、マレンは父に捨てられてしまったことに気づきます。途方に暮れた彼女が目指すのは、顔も知らない母親。ミネソタにいるという母を訪ね、旅を始めると、老人のサリーや、青年のリーなど、自分と同じイーター、人を食べる同族と知り合うのですが…
 
原作は、アメリカの作家カミーユ・デアンジェリスの同名YA小説で、日本では早川書房から出ています。脚本と共同制作は、デビッド・カイガニック。監督と共同制作は、ルカ・グァダニーノ。ふたりは、『胸騒ぎのシチリア』、リメイク版『サスペリア』に続く3度目のタッグです。

WAVES/ウェイブス(字幕版) 君の名前で僕を呼んで(字幕版)

マレンを演じたのは、この番組でも短評した『WAVES/ウェイブス』で脚光を浴びたテイラー・ラッセル。彼女が出会う青年リーは、グァダニーノ監督とは『君の名前で僕を呼んで』以来のタッグとなるティモシー・シャラメ。他にも、マーク・ライアンスやジェシカ・ハーパーマイケル・スタールバーグなど、実力派俳優がキャストにその名を連ねています。
 
去年の第79回ヴェネツィア国際映画祭では、監督賞とテイラー・ラッセルの新人俳優賞のW受賞となりました。
 
僕は先週金曜日の朝、MOVIX京都で鑑賞してきました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。


カニバリズムの話ということで、小心者の僕は結構ビビって劇場へ向かったんですが、先に言っておきます。もちろん、倫理的な観点とゴア描写が含まれるということでR18指定にはなっていますが、はっきり言って、グロさで言えばそんなにたいしたことはないので、そんなに身構える必要はないです。むしろ、これは人が人を食べるという倫理的な側面の方がショックが強いという判断じゃないかなと推察します。それはわかる。でも、それがおぞましいだろうからと観るのをやめるのはもったいないくらいに、僕は青春ロード・ムービーとして素晴らしいものがあると評価しています。

 
まずカニバリズムということで言えば、たとえばキリスト教で言えば、教会の聖体拝領ではキリストの身体の比喩としてウエハースのようなパンを食べます。キリストは最後の晩餐で言ったわけですね。パンとワインはそれぞれ自分の身体であり血である。聖書にもこうあるわけですが、カニバリズムというのは、人間の歴史の中でありとあらゆる文化の中に少なくともかつて存在し、ひとつに束ねるのは不可能というレベルで多様な意味合いをもって物語にもされてきました。もちろんショッキングなんだけれど、決して露悪的なものではないです。僕はどちらかと言えば、人の姿をした吸血鬼ものに近いなとも思いました。ヴァンパイアものとラブストーリーや青春モノをかけ合わせた例は過去にあるし、なんならトワイライトシリーズなんて、まさに若者の間でむちゃくちゃ流行りましたよね。でも、ヴァンパイアだったらジャンル化されていて違和感がないのに、人間だと違和感どころか嫌悪感が残るんですよね。僕はその嫌悪感こそ、監督があぶり出したかったのではないかと考えています。

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グァダニーノはこれまでも、マイノリティーの孤独やアイデンティティーの揺らぎをテーマに作品を作ってきました。80年代のアメリカの田舎を舞台に、たとえば性的少数者の物語を描いたとしましょう。なんか、特に最近だと普通にありそうですよね、そういうの。LGBTQ+を扱う映画が増えているのは良いことだと思いますが、大勢が既に指摘しているように、この映画はそうしたマイノリティーのたとえとして、おぞましきマン・イーターを設定しているわけです。今でこそ、性的少数者への「理解」というのは、たとえば20年前、あるいは30年前と比べれば進んでいるわけですよね。逆に言えば、アメリカの保守的なエリアでの30年前なんて差別は著しく、コミュニティーの中でひた隠しにしなければならず、親にカミングアウトしたとて激怒されたり嫌悪されたりしてきたわけです。当人も、たとえば思春期に自分の性自認に戸惑う苦しみなんてのは、今とは比べ物にならなかったでしょう。下手をすれば人として同じ扱いを受けないどころか、精神科病院に理由をつけて入れられるなんてこともあったわけです。これは文化圏によっては今もあることです。そして、当事者同志なら心を許しあえるかと言えば、ことはそう単純ではなく、マイノリティーというのはひとつの属性であって、人間は他にもいろんな属性があるわけだから、事情や倫理観は様々で必ずしもわかりあえるわけではない。それが故に、この人となら居場所のなかった社会や家庭を乗り越えて、心安らげる場所を一緒に作れるかもしれないと希望を見出す。

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って、何を映画と直接関係のない一般論をしているんだと思われるかもしれませんが、今言ったのは、『ボーンズアンドオール』のあらすじそのものなんです。自分のルーツを探る親を探す話であり、自分と似た境遇や特徴を持った人に出会うアイデンティティーの肯定の話であり、似ているけれど違う人がいることを知って自分の特徴や考え方、生き方を見極めていくこと、つまりは大人になる話を、より強烈な孤独感、疎外感、切実さをもって観客に示すため、さらには今でこそ理解しているつもりでいる観客にかつての社会が持っていた嫌悪感や侮蔑感情を思い出させる装置としてのカニバリズムなんだと思います。
 
主人公のマレンを演じたテイラー・ラッセルは圧巻の演技だったし、シャラメ演じたリーとの間柄は恋人のようでいて、兄弟のようでいて、単純なラブ・ストーリーに閉じ込められていなくて見ごたえがありました。さらに、アメリカ各地を旅するロード・ムービーとしても一級品。グァダニーノ監督は初めてアメリカで撮影しましたが、その景色にふたりの心象風景を重ねる手際はすばらしかったです。
 
僕だって、ハーフ、ダブルという少数者として80年代に育ちましたが、偏見もいじりも面倒もいろいろあったけれど、同じ境遇の人だからこそわかりあえるわけじゃないってことはありました。と、そんなことっていろいろあると思うんです。障害を抱える人、変わった趣味を持つ人、などなど。カニバリズムを過剰にセンセーショナルに取り上げて観る人が減るのはもったいなさすぎる、フィクションだからこそできる僕は優れた寓話と結論づけます。
 
最初に衝撃が走る女子会、お泊り会の場面では、Duran Duranのこの曲なんかが流れてきます。80年代という時代演出もあるんでしょうが、一夜だけの愛でもいいという内容が、なるほど物語にも絡みます。

さ〜て、次回2023年3月7日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『ちひろさん』です。今泉力哉監督は作品の量も質も高水準だし、なおかつ有村架純主演だし、主題歌はくるりだしと、期待が高まります。Netflix作品ですが、エリアによっては映画館でもやっているそう。さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す!

『レジェンド&バタフライ』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 2月21日放送分
映画『レジェンド&バタフライ』短評のDJ'sカット版です。

尾張の信長と、美濃の濃姫。政略結婚で結び付けられたふたりは水と油の関係。武将織田信長の人生を、濃姫と過ごした30年という観点でまとめた伝記映画で、桶狭間の戦い足利義昭との上洛、比叡山焼き討ち、本能寺の変といった史実の裏にあったふたりの行動と感情を描きます。
 
先日東映の手塚社長が亡くなられました。ご冥福をお祈りします。東映創立70周年を記念して公開された本作も企画を牽引されたといいます。それだけ肝いりのものとあって、製作費は20億を用意し、監督には『るろうに剣心』などの大友啓史、脚本には「三丁目の夕日」シリーズや「コンフィデンスマン」シリーズなどを手がけ、今は大河ドラマ「どうする家康」も書いているという日本の娯楽作を代表するストーリーテラーのひとり、古沢良太を抜擢しました。
 
織田信長には木村拓哉濃姫には綾瀬はるかをそれぞれ起用したほか、宮沢氷魚市川染五郎斎藤工北大路欣也伊藤英明中谷美紀らも好演しています。
 
僕は先週金曜日の昼にTジョイ京都で鑑賞してきました。1時間ほど前にネットで席を押さえた時にはそこまで埋まっていなかったのに、劇場へ行ってびっくりのほぼ満席。だから、ネットでチケットを買うのではなく、現地で購入するのがメインの比較的高齢者層、そして映画館へ普段行かない人がたくさん観に行っているんだと実感しましたよ。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

繰り返し映像化されてきた信長の人生。ただでさえ複雑な戦国時代の真っただ中を生きた名将だし、破天荒で残虐でエピソードも豊富なことから、いくらでも描きようがあるわけですが、考えたら結婚から死ぬまでを1本の劇映画にするってなかなか大変だと思うんですよね。取捨選択をうまくやらないと、のっぺりしたものになるし、どこかに的を絞りすぎると、全体が俯瞰できなくなる。そこで製作陣と古沢良太が考えたのが、文献も少なく、人物像は謎に包まれている濃姫を映画全体で並走させること。そうすれば、彼女は自由に創作しやすいし、彼女を触媒として、誰でも知っている物語に新鮮味を与えられるのではないかという作戦ですね。僕はこれについてはうまくいっていると思います。綾瀬はるかがピカイチだったのもあって、信長以上に文武両道、武道に狩りにと身体がよくよく動く上、政略結婚で嫁いできていて、機を見つけて寝首をかく勢いの彼女ですから、戦での戦術にも冷静かつ大胆なアイデアを披露する。昔ながらの時代劇の女性像ではなく、家父長制の中で物怖じしない「現代的な女性」に仕立てることで、うつけ者と言われた信長とのシーソーが成り立っている。

(C)2023「THE LEGEND & BUTTERFLY」製作委員会
古沢良太脚本っぽさがわかりやすく出ていたのが、前半、今作での濃姫のキャラクターを提示する出会いから桶狭間の戦いぐらいまでの流れですね。あそこはもう、濃姫側に物語の重心が傾いています。かっこばかり気にしていて、まだ実績に乏しく、実はたいして度胸もない存在だった信長を焚きつけ、知恵を授け、なんなら裏で操作して大志を抱かせる存在としての濃姫と、かといって相思相愛ということで推移するほど単純でもない関係性が狙い通りフレッシュでした。
 
ただ、その後、京都に上ってからの信長というのは、「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」が端的に表す通りの武将、いや、魔王と恐れられる存在へと変貌を遂げるわけです。そうなると、勢い物語の重心が今度は信長へ。そして最期には、そのシーソーのバランスがふたりの間に落ち着いていく。こうまとめるときれいなんですが、これはどうしてもと言うべきか、魔王信長の時間が圧倒的に長いんですね。すると、どうしたって濃姫は存在そのものが薄くなる。なんたって途中から一緒にいないことが増えますから、出番が減って画面がおっさんばっかりになるんです。そういうもんだろうって言われるとそうなんですけど、どうしても既視感が勝ってしまううえ、濃姫の占める割合が減ると、そもそも伝記映画としてのダイジェスト感が強調されちゃうんです。あれ、もう焼き討ち終わりかと思ったらいつの間にか安土城が建っとる!ってな具合。それなのに、濃姫が何を考えているのかは、一緒にいない分、描ききれないんです。なんだか信長の魔王っぷりと、その仮面の下で徐々に大きくなる不安やら不信感やら弱さやらをしきりに描写するわりには、わかるようでわからんようでという、尺をかなり使って似たような場面が多いわりには、これまた描ききれていないのが隔靴掻痒でした。濃姫、信長、ふたり同じ高さというシーソーのバランスはそれぞれ用意されているんだけど、信長に傾いている時間が長すぎて、それだったら、別に一生をすべて描かなくても良かったんじゃないかと首を傾げていると、本能寺の変です。

(C)2023「THE LEGEND & BUTTERFLY」製作委員会
でも、その前後の一連の描写は見ものでした。そもそも、そこもふたりは一緒にいないんだけれども、ある約束をして信長が出かけたことで、ふたりの願いが一致をみるような脚本と演出になっていて、ここは古沢良太の脚本と、決めの画面で堂々と圧倒してくるタイプの大友啓史監督のスタイルがうまく融合しているところだと僕は手を叩きました。
 
大友演出は、夢のシークエンスが全体的にうまいこと。合戦のシーンは周到に避けた脚本になっているのに、きっちり大作感をかもしていること。縦の動きを平面の動きをうまく組み合わせて物語に起伏をもたらすカメラワークも巧み。音楽も迫力ありましたが、餅つきの音がそのまま場面が変わってもリズムを刻み続けるなど、特に音響効果がすばらしい。美術もオープンセットからスタジオから大道具から小道具から、とにかくよくできていて東映京都撮影所の本気度がうかがえるし、役者の演技も主演のふたりに加え、伊藤英明音尾琢真など、「ええぞ!」とこれまた手を叩きました。

(C)2023「THE LEGEND & BUTTERFLY」製作委員会
欲を言えばってところは、全体の構成と演出のバランスにあることはそりゃありますが、ぶつくさ言いはしましたけど、見応えは十分にあるし、僕なんてしっかり見終わってから人生について権力について考えちゃいました。どうぞ、なめてかからず、皆のもの、いざ映画館へ!
 
もし自分が時の権力者でなかったらという展開の中で、何度か出てきますが、海というのは重要なモチーフになっていましたね。そうした想像の羽を広げる動機は、やはり濃姫であったということを踏まえてこの曲をオンエアしましたよ。

さ〜て、次回2023年2月28日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『ボーンズアンドオール』です。『君の名前で僕を呼んで』で知られる、イタリアが誇るルカ・グァダニーノ監督が、またもやティモシー・シャラメを呼び寄せて、今回はまたとんでもないことを……。とはいえ、シャラメはやはり大画面に限ると、さぁ、あなたも勇気を出して鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す!

『仕掛人・藤枝梅安』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 2月14日放送分
映画『仕掛人・藤枝梅安』短評のDJ'sカット版です。

品川の藤枝梅安にはふたつの顔がある。表は鍼医者、裏は依頼に基づき悪人を殺す仕掛人。梅安は同じく仕掛人として暗躍する彦次郎とつるんで食事や酒をともにしながら、世間に打ち明けがたい裏稼業の葛藤を癒やす日々でした。ある時、梅安が料理屋を訪ね、次なる仕掛の標的であるおかみの顔を見て驚きます。そこから梅安の過去が明らかになってきます。

仕掛人・藤枝梅安 全7巻合本版 (講談社文庫)

生誕100周年となる作家池波正太郎が1972年からおよそ20編発表してきたこの連作時代小説は、繰り返しドラマ化、映画化され、これまでに緒形拳萬屋錦之介渡辺謙らが梅安を演じてきました。今回は豊川悦司を主役に据え、相棒の彦治郎を片岡愛之助が演じ、二部作として映画化した、これが第一作です。他に、菅野美穂高畑淳子小林薫柳葉敏郎天海祐希早乙女太一らが顔を揃えています。
 
脚本は『お墓がない!』や『黒い家』の大森寿美男。監督はフジテレビ出身の河毛俊作が務めました。
 
僕は先週金曜日の昼にTOHOシネマズ二条で鑑賞してきました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

今作のエグゼクティブ・プロデューサーは日本映画放送の方で、つまりは日本映画専門チャンネルとか時代劇専門チャンネルを編成している会社です。そこでここ10年余り、池波正太郎関連のオリジナル時代劇を20以上作ってこられたとパンフレットにありました。その上で、時代劇の伝統を「守る」のではなく、世界に良質な時代劇を発信していく「攻め」の気持ちで企画していくことが大事だと考えた時に、鍼という独自の技を使うダークヒーローとしてのキャラクターは、日本刀のイメージとも違う新鮮味もあって面白いだろうということで、池波正太郎生誕100周年、そして時代劇専門チャンネル開局25周年のタイミングに合わせ、相当気合を入れて現代版梅安の製作に取り掛かったようです。日本全国の新聞社・テレビ局も42社とたくさん巻き込んで、時代劇パートナーズなる組織を結成してことにあたっています。これが前提なんですが、裏を返せば、それほどまでに時代劇は衰退の一途をたどり、古臭いものと敬遠され、テレビでも放送機会が減り、製作本数が減るということは撮影所でのスタッフの知恵や経験の継承も先細ってきたという危機的状況もあるわけです。だからこそ、プロデューサーの言う「攻め」抜きには未来はないし、世界にも面白がってもらえる良質なエンターテイメントにしなければならない。1978年生まれで人よりはちょっとばかし映画を観ているような僕でさえ、はっきり言って時代劇を観るのは年に数えるほど。という意味では、世界どころか、日本でも特に30代以下の世代には、時代劇と言えば大河ドラマぐらいのイメージになってしまっている可能性があるわけです。だからこそ、この作品は時代劇の魅力をむしろ真っ直ぐに表現することに一所懸命になっているように見受けられ、僕はそれこそが賢明な判断だったとみています。キャラクターが既に特殊で突飛なのだから、それを活かすべく、映像そのものは基本に忠実にやろうということでしょう。

(C)「仕掛人・藤枝梅安」時代劇パートナーズ42社
その点、しっかり時代劇の現場でこれまで仕事をしてきた、そして今まさに働き盛りなスタッフを撮影監督も照明も美術も揃えているのがすばらしい。成果として、画面の陰影の美しさをまず挙げたいです。画面がしっかり暗い。これはTVモニターを前提としたものではなく、映画だからこそできることだし、たとえば冒頭、最初の殺しのシーン。水遁の術からの標的を船から水中へ引きずり込んで、その後、こともなげに浜へ上がり、月明かりの下、歩いていくところなんてしびれました。寺の様子を偵察しにいったところでの雪のシーンもため息が出るほど美しい。ああした美学と行われる行為の残酷さのコントラストがこの藤枝梅安の真骨頂でしょう。衣装デザインも含め、とても丁寧に計算された美意識を感じる映像が連なります。

(C)「仕掛人・藤枝梅安」時代劇パートナーズ42社
豊川悦司のキャスティングは大正解です。大柄で頭を丸め、身体の動きはシャープにして寡黙で、色気がある。一方で、過去の一連の梅安ものよりも細さを際立たせた鍼の繊細さも文字通り映像通り光ります。脚本的にも、男性優位の社会の中で搾取されている女性のバリエーションを増やしているのは現代的で好感が持てました。僕は時代劇のチャンバラが、というより侍の存在がいつもいけ好かないと思っちゃうタイプですが、そこは権力に楯突く異端の侍として早乙女太一がいい仕事をしていて、彼の胸のすくような殺陣を楽しめるのも時代劇の見どころとして押さえてあって良かった。

(C)「仕掛人・藤枝梅安」時代劇パートナーズ42社
加えて、やはり片岡愛之助演じる彦さんとの関係性に萌えざるを得ないでしょう、あれは。彦さんの武器が吹き矢っていうのも良くて、槍持ってきた奴に吹き矢で応戦するくだりなんて絶品でした。で、それぞれ命をかけた仕掛が終わると、どっちかの家に集まって、いっつもふたりしてなんか料理を振る舞いあってキャッキャやってるでしょう? お粥にネギと厚めに削った鰹節だけでもうまそうに見えるし、ゆずを練り込んだそばを打つ梅安も最高。とにかく飯食って飲んでますよ。そして、遅くなったし、寒いから「今夜は泊まっていくかい」なんて具合に楽屋で心を許し合っている状態ですよ。バディーものとしての魅力も存分にありますよね。その他、集った豪華俳優陣も、他の作品ではなかなか見せない表情と所作は見応えがあるし、ここで役者としての本領を発揮してやるぜという気概にあふれています。
 
梅安はダークヒーローですから、医療行為と殺人、善と悪の矛盾を抱えながらブルーズをたたえて生きています。バットマンが僕はちらつきました。次作の彦さんとふたりして向かう京都編でその塩梅がどう深まるのか、それは観てみないとわからないということで、現時点では最終的な評価は棚上げして、とにかく満足できる作品だったと述べるにとどめておきます。

さ〜て、次回2023年2月21日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『レジェンド&バタフライ』です。僕がラジオで毎週短評をするようになってそろそろ10年になるんですが、時代劇が2週続くのはきっと初めてですよ。市井の鍼医者/仕掛人から、歴史上の偉人へ。そして、トヨエツからキムタクへ。なんかすごい流れになってきました。梅安も気合の入った作品だと説明しましたが、こちらも東映70周年記念作品とのこと。楽しみじゃ。さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す!

『ルパン三世VSキャッツ・アイ』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 2月7日放送分
映画『ルパン三世VSキャッツ・アイ』短評のDJ'sカット版です。

1981年の東京。昼は喫茶店を営み、夜は怪盗キャッツ・アイとして世間を騒がせる来生家の美人三姉妹、長女から泪(るい)、瞳、愛。彼女たちの今回のターゲットは、美術展に出品されている、彼女たちの父親ミケール・ハインツの絵画。同じ頃、ルパン三世もやはりハインツの絵画を狙う。どちらも三連作「花束と少女」の1枚なのですが、残る1枚を狙うのはルパン一味とキャッツ・アイだけではないようで、国際的な武装組織も動いている他、峰不二子も暗躍。そして、ルパンを追う銭形警部とキャッツ・アイ逮捕に意欲を燃やし続ける内海敏夫がタッグを組み、絵をめぐる騒動はどんどん大きくなる中、そこに秘められた謎も明らかになっていきます。

ルパン三世 : 1 (アクションコミックス) CAT’S EYE 1巻

ルパン三世のアニメ化50周年と、キャッツ・アイ原作40周年を記念して、初のコラボレーションが実現です。監督は、劇場版名探偵コナンシリーズを数多く手がけてきた静野孔文(しずのこうぶん)と、CGを得意とする瀬下寛之(せしたひろゆき)のふたり。音楽では、ジャズバンドfox capture planがオープニングテーマなど、劇伴のあちこちで活躍しています。
 
1月27日からアマゾンプライムビデオで独占配信されているこの作品、僕は先週金曜日の夜に鑑賞しました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

いずれも泥棒もの、なおかつ、ひとりではなく、チームで動くケイパーものであり、お色気もあって、笑えて、音楽がとびきりかっこいい。そして、日本だけでなく世界のあちこちでアニメがTV放送されてきた大人気シリーズということで、それは期待が高まるというもの。僕もわくわくして再生ボタンを押しました。どっちも小学生の時にテレビで再放送を見ていたので、少なからず、僕のアニメ鑑賞経験の基礎になっているんです。それだけに、まず絵の違和感が正直言って拭えなかったです。3DCGを使いつつも、セルルックにしてあるというのが、公式サイトでもウリ文句になっています。要するに、昔懐かしのセル画アニメの作画感を出しながらも動きそのものは滑らかでリアリティーのある表現になる、日本ではまだ黎明期の技術が用いられています。お金かかってるんですね。確かに、かなりアクションシーンが多い作品なので、3DCGの利点を活かしながらも、懐かしの伝統あるシリーズなので、セル画の雰囲気は残したいという気持ちはわかります。ただ、僕は観始めてしばらくは1981年という設定に気づかなかったくらい、ものの描写が克明なので、キャラクターのセル画感がどうもヌルヌル見えて上滑りしているように思いました。また、キャラクターデザインが特にキャッツ・アイ三姉妹の現代化が著しすぎて、これも1981年という時代設定にむしろそぐわない印象でした。逆にレトロ方向に舵を切ってデザインしてほしかったなというのが正直なところです。アニメはやはり絵の雰囲気とそれがどう動くのかってことが鑑賞の快楽に直結するので、今作のデザインと制作技法が、どういうロジックで描く物語に合致すると考えられたのか、僕には疑問がかなり残ります。
で、描く物語ですが、当初こそターゲットの絵をそれぞれに盗む「対決」の構図があるものの、それがやがて共通の敵に立ち向かうチームへとシフトしていくのは想像通りでした。そりゃ、どちらのファンも結局はそれを望むわけだし、物語の起伏も生みやすいので、安心して楽しめる妥当な流れです。そして、どちらにも警察に属する名キャラクターがいますね。銭形警部と内海敏夫。彼らが先輩後輩として妙にうまくやっていくのは笑えるし、全体を通しての存在感もちょうどいい塩梅ですばらしかったです。問題の泥棒たちについてですが、これはもうはっきりとルパン三世の長編シリーズの枠組みにキャッツ・アイが飲み込まれていました。確かにルパンはこれまで長編がたくさんあって、物語の型があるので、たとえばカリオストロの城におけるクラリスのように、ルパンがうぶな女の子を連れて動き、その子にいろいろと教え諭していくのは、これも安心して楽しめる要素です。今作では、三女の愛がルパンの教え子となるわけですが、僕はそこがストーリー的に一番もったいないなって考えています。だって、僕はお姉ちゃんふたり、泪と瞳が好きなんだものって趣味は置いておくとしても、活躍がアンバランスなんですよ。さらに言えば、ルパンが愛のメンター的に導いていくのは年齢的にも経験からいってもわかるんですが、キャッツの上のふたりがもっとルパンを感心させるような手口を見せてくれないと、ますます存在が薄くなるんです。だから、結局不二子にいいとこ持っていかれてしまうんですよ。人数が多いので難しいのはわかりますが、全体の構図として、ルパンとキャッツが張り合う、あるいは両者が力を合わせるからこそ敵を打ち負かすことができるのだというところは維持したかったです。
なんて具合に、僕みたいなライトなファンでもこういて色々言いたいことが出てくるぐらいだから、もっと熱心なファンならもっとでしょう。でも、いいところだってたくさんありました。音楽はfox capture planの抜擢が当たってスタイリッシュだったし、オープニングクレジットもあそこだけ見直したいくらいにシャレてます。あと、会話の中にとにかく猫の慣用句や言い換えをたくさん入れてあるのは楽しいし、そういう細かいところはとても大事だと思います。そしてなにより、こんなコラボが曲がりなりにも成立するなんてという胸の高鳴りはちゃんとあるので、時間泥棒では決してないし、一定以上の楽しさは間違いなくありますから、ぜひご覧になってみてください。
それにしても、冴羽獠のカメオ出演が話題となっていますが、シンプルに遊び心なのか、それとも布石なのか、それも気になるところですよ。


さ〜て、次回2023年2月14日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『仕掛け人・藤枝梅安』です。原作の池波正太郎、生誕100年を記念しての2部作の1本目なんだとか。豊川悦司の迫力がすごい。さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す!