京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

『ジャンヌ・デュ・バリー 国王最期の愛人』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 2月27日放送分

18世紀、フランス。貧しい家庭の私生児として生まれたジャンヌは、本を通して世界を学び、好奇心を満たしながら、類まれな美貌と知性で貴族の男たちに取り入り、高級娼婦として社交界での存在感を高めていきます。ついにヴェルサイユ宮殿に足を踏み入れたジャンヌは、美男にして型破りだった国王ルイ15世との対面を果たすと、瞬く間に気に入られ、ふたりは熱烈な恋に落ちます。こうして国王の公式の愛人である公妾となったジャンヌでしたが、労働者階級出身で堅苦しいマナーやルールを平気で無視するジャンヌは、とりわけ保守的な女性貴族たちから反感を買うようになっていきます。
 
監督と脚本、そして主役のジャンヌを演じたのは、マイウェン。ルイ15世には、ジョニー・デップが全編フランス語で扮しました。カンヌ国際映画祭でワールドプレミア上映があり、その後一般公開されると、フランスで75万人を動員する大ヒットとなりました。
 
僕は先週木曜日の昼下がりに大阪ステーションシティシネマで鑑賞しました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

タイトル通り、ジャンヌ・デュ・バリーの伝記映画ですが、「ベルばら」で既に馴染みのあった方を別にすれば、僕みたいな18世紀フランス史に疎い人間にしてみると、情報まっさらに近い状態じゃないかと思います。でも、話についていけなくなるような難しさは特にないので、当時のヴェルサイユ宮殿内外にあった王族や貴族の文化風習について、観ればしっかり興味を喚起されるはず。
 
監督かつ主演のマイウェンが彼女に惹かれたのは、「ジャンヌ・デュ・バリーが堂々たる敗北者だったから」だとインタビューで答えています。確かに、身分制度がある時代で、彼女のような私生児はサバイブしていくだけでもなかなかきついものがあるわけですが、ジャンヌが自らの境遇の中で最大限の成功とも言える国王との恋愛関係というのは、それを勝ち取ることにより、同時にやがては破滅することも意味してしまうという哀しみがつきまといます。それでも、どうせ散るならできる限り華々しくという美学を彼女の人生を題材にマイウェンは描きます。
 
僕が無知なだけで、たとえばパンフレットに評論家の萩尾瞳さんが寄せた文章を読めば、ジャンヌ・デュ・バリーがサイレント映画の頃から繰り返し映画化されてきたことがわかります。そこに共通しているのは、「美貌と才気でのし上がり最後は断頭台に散った女性の数奇な運命を描くアプローチ」であり、「マリー・アントワネットものでは敵役としてのポジション」であるというパターンにマイウェン監督は反旗を翻し、自分の人生を自分で選び取っていく、主体性のある女性像、もっとはっきり言えば、現代的とも言える女性のあり方をジャンヌに投影しようという意図がうかがえます。美貌が武器になること。それが災いにも結びつくこと。知性やユーモアが人生を豊かにすること。時代によって制度的な限界はあっても、そこに果敢に挑んでいく生き方に、幼い頃から子役としてエンターテインメントの世界で活躍し、若くしてリュック・ベッソン監督と結婚し、子どもを授かりつつも破局した後、監督デビューを飾ってそのキャリアをますます磨き上げているマイウェンが共鳴したことは想像に難くないです。

(c) Stéphanie Branchu - Why Not Productions
実際にヴェルサイユ宮殿でロケをしたこと。目を奪われるきらびやかな宮廷世界を衣装や豪奢な調度品の数々で表現したこと。それだけでも見る価値のある作品になっていますが、成功の要因としてジョニー・デップのキャスティングに触れないわけにはいきません。多少はフランス語ができるにしても、アメリカ人にフランス国王を演じさせるというアイデアは普通に考えれば突飛ですよね。でも、これが当たり役なんですよ。5歳にして国王に即位し、確かに贅沢な暮らしや権力は思うままだったかもしれないが、規則と儀式だらけの狭い世界で生きてきた悲哀が色濃く現れてくる晩年のルイ15世の佇まいを、60歳のデップなら体現できるんですね。枯れたかつての色男の雰囲気がにじみ出ているし、言葉よりも目の動きや微細な表情がものを言う演出が物語にもフィットしていました。

(c) Stéphanie Branchu - Why Not Productions
マイウェンが達者な映画作家であることは、ひとつひとつ的を射たカメラワークからもはっきりと見て取れます。大勢のエキストラを配置した的確な構図。18世紀当時の絵画を参考にしたという、特に引きの画の巧みさ。デジタルではなく35mmフィルムの粒子や色彩を信じた、陰影や色味の出し方。ごちゃごちゃカメラを動かさない中で、時に効果的に挿入される移動も印象深く、特にジャンヌが馬車で宮殿を去るシーンにおいてカメラが後ろに引いていく後退トラヴェリングには、セリフなどなくとも映像だけでこちらの涙腺を刺激する名ショットでした。動きにもうひとつ触れるなら、史実を改変してでも映画的に見せたかった、マリー・アントワネットとのやり取りでジャンヌが大喜びするところ。晴れた屋外の階段を駆け上がっていく彼女を後ろから追うところも、ジッとしていられないほどの嬉しさをアクションだけで示してみせる名シーンと言えるでしょう。しかも、あの階段にはもはや先がないんですよね。まさにジャンヌがこれ以上ない高みに上り詰めた瞬間であり、後はもう落ちるしかないのだという隠喩にもなっていたように思います。

(c) Stéphanie Branchu - Why Not Productions
王室や貴族の儀式や風習が様式化しすぎて堅苦しいにも程がある様子を、ジャンヌは部外者として天真爛漫に揺るがしていくところは痛快だし、往々にして実はコミカルな描写も多いんですね。でも、その笑いや痛快さを後の哀しみにつなげていく手際もお見事でした。一方で、ジャンヌがその波乱万丈の人生において、実際のところ何を求めていたのか、その時々で自分の現状をどう位置づけていたのか描ききれていないように思われるフシがあったのは残念でしたかね。
 
とはいえ、価値ある作品です。18世紀フランス宮廷ものとしても、ジョニー・デップ3年ぶりのスクリーン復帰作にしてはまり役としても、そして何よりマイウェンという日本ではまだまだ知名度の低い大いなる才能に触れるきっかけとしてもオススメします(配信でもいいから、どっかのチャンネルでマイウェン作品回顧上映企画とかやってくんないかなぁ)。
この作品において、マイウェン監督は音楽にお涙頂戴は入れない、映像のサポートではなく、音楽が映像と対比するようなものが必要だとして、コンポーザーに依頼をしたとのことで、実際のところ見事な仕上がりでした。そこは映画で楽しんでいただきつつ、僕はフランスのポップソングをお送りしました。

さ〜て、次回2024年3月5日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『コヴェナント 約束の救出』。監督はガイ・リッチーなんですよ。なんでも、アフガニスタンを舞台にしたドキュメンタリーを観て映画を撮ろうと思ったそうで、社会派の作品になっているらしいですね。ガイ・リッチーをそこまで駆り立てた出来事に注目します。さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!

『レディ加賀』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 2月20日放送分
映画『レディ加賀』短評のDJ'sカット版です。

加賀温泉にある老舗旅館の一人娘、由香。小学生の頃に見たタップダンスに魅了された彼女は、プロを目指して上京。舞台にも立つようにはなったものの、思うようには活躍できず、実家に戻って女将修行をスタートさせます。ただ、全国から集まった女将を目指す女性たちに気後れし、なかなか思いに火がつかずにいたところ、加賀温泉を盛り上げるためのプロジェクトが始まることに。ここで奮闘せずにどうすると、由香は新米女将たちを集めて、タップダンスのイベントに向けて準備を始めるのですが……。

カノン

監督と共同脚本は『カノン』の雑賀俊朗(さいがとしろう)。由香を演じたのは、小芝風花。その母親で老舗旅館の女将に檀れいが扮したほか、佐藤藍子森崎ウィン、そしてタップダンサーのHideboHなども出演しています。
 
僕は先週火曜日の夜になんばパークスシネマで鑑賞しました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

ご当地映画という言葉で括られる作品がありますね。古くは『二十四の瞳』の小豆島とか、大林宣彦尾道三部作もそうでしょう。物語や俳優に加えてロケ地の魅力もスクリーンを通して観客に伝わった時、その舞台は聖地巡礼の対象にもなりますし、その拠り所として記念館なんかが作られることもしばしばです。寅さんとか釣りバカ日誌みたいなのは、ご当地映画のシリーズ版とも言えるだろうし、撮影が決まるとその自治体からは歓迎を受けるなんてこともありました。でも、たまたまロケ地に選ばれるのを待たず、地域おこしや自分たちのコミュニティの個性をアピールする、再確認することを目的に作られるご当地映画というものもあって、実は今世紀に入ってからの一大ジャンルになってもいます。これが成功したケースの一つに『フラガール』がありますね。2006年の公開で観客動員は130万人、キネマ旬報のベストテンで1位、読者選出でも1位という大ヒットと評価を得ました。福島県を舞台にしたご当地映画であり、実話に基づきながら、ダンスで町おこし事業を展開していく様子を劇映画化したという流れは、『レディ加賀』にも同じことが言えます。

(c)映画「レディ加賀」製作委員会
こちらは加賀温泉が舞台ですが、主人公の由香を含め、20代でまだ自分の生き方を決めきれていない状況だった女性たちが、それぞれのバックグラウンドと想いを抱えながら、女将を目指した養成講座に参加し、由香の得意なタップダンスでレディ加賀を結成。SNSを使いつつアピールしながら、イベントをやろうと盛り上がるものの、トラブルもそりゃ続々と発生して、クライマックスはイベントそのものになる。だいたい予想通りにことが運んでいきます。

(c)映画「レディ加賀」製作委員会
その意味で、のんびり見られる、お約束重視の作品ですから、脚本も演出も全体的にゆるいです。コメディ演出は大げさで突発的な大きな言動で何とかしようとするし、だいたいのシーンで演劇的にただ立って人の話を聞いているだけのキャラクタがー登場するし、旅館の後継者不足の問題やそれぞれの女性たちの背景や人生の乗り越えるべき困難の切り込み不足により、全体的に軽い印象になってしまっています。観光コンサルタントを呼んできて、あとはぶら下がって太鼓持ちをしてしまっている町役場の人間とか、もうちょい突っ込んでも良さそうですが、そこはご当地娯楽映画が積極的にカバーするところではないのでしょう。とりあえず、イベントが上手くいけば万事OK的なクライマックスへと向かうわけですが、そこでもいろいろトラブル満載ですよ、それは。なんじゃそりゃっていう事態がどんどん起こります。もうシッチャカメッチャカで、演出も演技もそれに呼応したものになっているんですが、それをみるみるワンチームになった若者たちが解決していく。何とか形にする。それを見守る年長者たち、という構図。でも、それがですね、地元のお祭とかイベントの類のあの独特なゆるさとマッチしているというか、物語の内容と映画のスタイルが望ましくない形で合致しているんだよなとぼんやり思っていたら、ハッとしました。

(c)映画「レディ加賀」製作委員会



佐藤藍子演じる厳しい女将が修行中の若い女性たちにこう話すんです。加賀温泉にはこれまで3つの危機があった、と。それは2007年に起きた能登半島地震であり、東日本大震災やコロナ禍における観光産業の不振だったということ。それが、今こうして全国公開されている時点で、製作時には予想もしなかった4つめの危機に見舞われているわけです。実話を基にしたフィクションがまた新たな現実を迎えている中で見られているということになるわけで、レディ加賀を、そして石川県内の観光振興を願わずにはいられなくなるんですよね。華麗なタップダンスのようにキレの良いウェルメイドな映画というわけではありませんが、観ているとハラハラして妙に応援したくなるチャームもあります。タップがモチーフとあって、足元をうまく切り取って畳み掛けるところとか、もちろん良いところもあるよ。配給収入の5%が義援金として石川県に寄付される他、映画館によっては独自の義援金システムを設定しているところもありますよ。ゆるくご覧になってみてください。
潔い終わり方のところに、エンディングとして眉村ちあき書き下ろしのこの歌が光っていました。

さ〜て、次回2024年2月27日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『ジャンヌ・デュ・バリー 国王最期の愛人』ジョニー・デップが、ここに来てすごい演技を見せているという評判も聞きますよ。しかも、フランス語を駆使して。さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!

映画『哀れなるものたち』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 2月13日放送分
映画『哀れなるものたち』短評のDJ'sカット版です。

橋から飛び降りて命を絶った若き女性が、天才外科医ゴッドウィンの手で奇跡的に蘇ります。ただ、記憶は一切なく、ベラという新たな名前とともにまるで赤ん坊のようにイチから成長していくことになるのですが、世界を自分の目で観たいという強い欲望に駆られ、放蕩者の弁護士ダンカンの誘惑でヨーロッパを巡る旅に出発します。

哀れなるものたち (ハヤカワepi文庫)

原作は1992年に発表されたアラスター・グレイの同名小説で、脚本は監督のヨルゴス・ランティモスとタッグをこれまでも組んできたトニー・マクナマラ。製作には、監督の他、主人公ベラを演じたエマ・ストーンの名前もクレジットされています。外科医ゴッドウィンには、ウィレム・デフォー、そしてベラを世界へと連れ出す弁護士ダンカンをマーク・ラファロが演じています。
 
去年の第80回ヴェネツィア国際映画祭で最高賞の金獅子賞を受賞した他、来月の第96回アカデミー賞では作品賞、監督賞、主演女優賞など、計11部門にノミネートしています。
 
僕は先週金曜日の昼にMOVIX京都で鑑賞しました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

ヨルゴス・ランティモス監督はすっかりアカデミー賞常連という感じで、映画でしか成立しない表現を追求してたどり着いた強烈な作家性は確かにもう完全に確立していると言って良いでしょう。世界を歪めて見せてしまうほどの魚眼レンズや極端なクロースアップに代表される映像のスタイル、動物の使い方、細部まで作り込んだ凝りに凝った衣装にセット、モノクロも含めた効果的な色使い、そして今回なら先に音楽を作らせて現場で流しながら撮影するほどの音楽の単なるBGMにはしない使い方などなど、彼には予算を与えれば与えるほど映画世界はさらに多層的で豊かなものになっていくんだなと実感します。これまでも発揮されてきたランティモス印に新しい要素が加わったというよりは、その印がより強固になってくっきりはっきり刻印されたのではないでしょうか。その意味で、美術や衣装デザイン、メイクアップ&ヘアスタイリング、作曲、撮影、編集と、アカデミー賞でもこうした部門に軒並みノミネートしているのは頷けるし、それらの要素を束ねてコントロールしていく監督のすごさというのは唸らざるをえないです。2時間20分ほどの映画ですが、そこに封じ込められている情報量はものすごいですから。

©2023 20th Century Studios. All Rights Reserved.
そして、この話、主人公のベラが、彼女をコントロールしようとするものに対して次々と反発して自由と知性と喜びを獲得しようとする内容でもありました。貴種流離譚という物語のパターンがありますね。特別な出自のあるキャラクターが自分の居場所ではないところをあちこち巡って試練を乗り越えていく。その結果として、何か尊い存在へと変貌・成長していくものかと思いますが、ベラも大枠としてはここに当てはまるでしょう。出自の点で言えば、彼女は身体は大人だけれど、当初、頭の中身はほとんど赤ん坊という状態。マッドサイエンティストたる「父親」であるゴッドウィンの人造人間的な娘ということになるわけです。まさに特別な出自ですね。ここはまさにフランケンシュタインということになりますが、ただ、面白いのはゴッドウィンの風貌の方が明らかなツギハギだらけでむしろフランケンシュタインっぽいんですよね。相当に異常なくらいに溺愛されながら、だんだんと言葉を覚え、自分の身体のことを知り、性の喜びにも目覚めていくうちに、みるみる思春期のようなフェーズに入ると、閉じた世界にいたベラは世界への好奇心を抑えられなくなり、婚約までしていたゴッドウィンの助手の男性を置いて、駆け落ちのような格好で弁護士ダンカンと旅に出ていく。リスボンアレキサンドリア、パリなどを巡り、またロンドンに帰ってくる頃には、ベラは見事に自立した女性へと変貌を遂げているわけですが、当然ながら自分の出自と向き合うことになる。

©2023 20th Century Studios. All Rights Reserved.
話のパターンとしては、まさに貴種流離譚なんですが、ここにひとつひとつ、フェミニズムのことや格差のこと、解剖学的見地も含めた生き物としての人間そのもののことや生命倫理、さらには知性や知的好奇心、親子関係や恋愛、友情のことなどが重層的に絡められていきます。そのひとつひとつがベラにとっては発見であり、無垢だった彼女にとっては学びなわけで、それこそまだ常識やルール、マナーの類、大雑把にくくれば彼女を縛る、コントロールしようとする考えや枠組みを知らなかったからこそ当然持ちうるそれらへの疑問が呈されることになります。

©2023 20th Century Studios. All Rights Reserved.
彼女をコントロールしようとするもの、そのわかりやすい最たるものが、男性性であることは言うまでもありません。この点は同じくアカデミー賞作品賞にノミネートされている『バービー』と並べて考えたくなるところですね。弁護士ダンカンは無垢なベラの性の喜びを爆発させる存在ではあるものの、遊びと思っていたのがみるみる本気になっていきます。恋愛で本気になるというのは、ともすると、相手を自分だけのものにしたいという所有欲に突き動かされること。それは性的に不能なゴッドウィンの父性との対比にもなっていました。さらには、今度は女性がどんどん知性と教養を身につけていくことに嫌悪感を示す男性像も出てきましたね。読もうとする本が奪われてポンポン海へと投げ捨てられていくのが象徴的でした。そして、ラスボス的に出てくる、自分の出自に関わる「あいつ」の存在がまた強烈で、かなりハラハラするくだりも最後に用意されているわけですが、そのあたりで考えてしまうのがこのタイトルです。Poor Things。哀れなるもの「たち」という複数形なんですよね。これは純度と完成度の高い寓話ですから、いろんなメタファーが入り組んでいて解釈も一筋縄ではいかないという前提の上で、この作品に出てくる、なんならランティモス流の皮肉のききまくった黒みがかったユーモアの餌食になる男性たちがpoor、哀れなるものであるというのは間違いないでしょう。僕も含めた男性は、引きの画で見れば滑稽で醜悪な自らのマチズモに対して居心地が悪くなること請け合いです。
 
と同時に、僕たち誰もが疑問に思っていたかも知れない常識へのアンチテーゼにもなる痛快さを兼ね備えていて、はっきり言って面白いです。ランティモス監督のひとつの集大成であり、その中でエマ・ストーンが全身全霊で躍動する姿は大きなスクリーンで観ておかないと! さらに、実はランティモスとエマ・ストーン、また一緒に次なる映画を制作中ということで、このふたりの今後からも目が離せなさそうです。
ランティモス監督がその独自性に注目して音楽に抜擢したイギリスの29歳ジャースキン・フェンドリックス。美しくも奇妙でユーモラスな音作りで『哀れなるものたち』の世界を聴覚的に構築してみせたサウンドトラックから、雰囲気をつかんでもらうべく、短い曲をオンエアしました。

さ〜て、次回2024年2月20日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『レディ加賀』。これ、実際に加賀温泉を盛り上げるための旅館の女将たちの同名チームがあるらしいですね。ユニークだなぁ。さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!

『サン・セバスチャンへ、ようこそ』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 2月6日放送分
映画『サン・セバスチャンへ、ようこそ』短評のDJ'sカット版です。

ニューヨークに住むモート・リフキンは、かつて大学で映画学を教えていたインテリで、現在は人生初の小説の執筆に取り組んでいます。一回り下の妻スーは、フリーランスで映画広報の仕事をしていて、モートはスーに同行してスペインのサン・セバスチャン映画祭に向かいます。ところが、スーはクライアントであるフランス人監督で新作が高く評価されているフィリップにベッタリ。まったく構ってもらえないモートは、スーの浮気を疑いながら、ストレスのあまり地元の病院へ。そこでの出会いが今度はモートの人生に新たな活力をもたらすことになるのですが、果たして彼らの人生の行方は?

ローマでアモーレ(字幕版)

脚本と監督はウディ・アレン。2012年の作品『ローマでアモーレ』以来、久々のヨーロッパ・ロケとなりました。撮影監督は、アカデミー賞撮影賞を3度獲得した名キャメラマンにして、ウディ・アレンとはこれで4度目のタッグとなるイタリアのヴィットリオ・ストラーロです。
 
主人公のモート・リフキンに扮したのは、ウディ・アレン作品に多数出演してきたウォーレス・ショーン。妻スーをジーナ・ガーション、映画監督フィリップをルイ・ガレル、医者のジョー・ロハスエレナ・アナヤがそれぞれ演じている他、クリストフ・ヴァルツもユニークな役柄で登場します。
 
僕は先週水曜日の午後に大阪ステーションシティシネマで鑑賞しました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

オリジナルタイトルは主人公の名前を取ってRifkin's Festival、「リフキンの映画祭」です。同じ映画祭に参加するといっても、彼はそこに求めるものが他の人と違うし、彼はサン・セバスチャンへ行っても、映画はほとんど観ずに、自分の好きな映画に自分が入り込んでいる夢を観てばかりいるので、確かに「リフキンにとっての映画祭」の話ですよね。冒頭、モート・リフキンは精神科医と思しき人物に「映画祭ではかくかくしかじかで」と体験談を語り始めます。そして、本編へ。当然、エピローグではまた精神科医とのこの場面に戻りますし、言うまでもなく、精神科医は僕たち観客のことだし、なんなら、モート・リフキンはウディ・アレン監督の分身という側面もあるでしょう。

© 2020 Mediaproducción S.L.U., Gravier Productions, Inc. & Wildside S.r.L.
スノッブでシニカル、何かにつけて口うるさいわりには結構な腰抜けでもある。だけどばっちりインテリで自己分析もできちゃうから、すぐ卑屈にもなるし自虐的でもある。端的に扱いづらいじいさんです。バカではないですから、自分に妻を惹きつけるだけの魅力が乏しくなってきていることがわかるだけに、はるばるスペインまでやって来て、今をときめく妻のクライアントの映画監督にばっちり嫉妬。しっかり具合が悪くなって胸が痛いと病院へ駆け込んだところで、チャーミングで知性豊かな現地の女性と知り合ったからもう大変。あっさり心動かされてのぼせあがるなんてもう、笑うしかないです。ダメだコリャってね。とまぁ、そんなストーリーにウディ・アレン映画としての既視感はそれは正直感じますが、映画祭が舞台ということで、モートの愛する古典映画オマージュをストレートにぶつけてきたことがむしろ変化球ですね。あ、このシーンはあの映画かな、なんてシャレた引用ではないですから。リフキンが観る夢、しかも嫉妬や自虐、不安が反映された夢や妄想、白昼夢の類が、すべてモノクロで観るクラシックな名作に反映されているんですよ。オーソン・ウェルズフェリーニゴダールトリュフォールルーシュブニュエル、そして、ベルイマン。たとえば『勝手にしやがれ』のあのシーツにくるまるラブシーンをモートが演じているところなんて、そりゃ吹き出しますよ。『第七の封印』の死神とのチェスのシーンも、モートが対戦するとシリアスなはずなのにおかしみが出てしまう。登場人物たちが部屋からどうしても出られないというシュールな設定は『皆殺しの天使』のパロディーですが、これもモートが自分でせっせと作り上げてきた鼻持ちならない人物像の中から自分自身が脱却できずに足掻き苦しんでいるようにも思えて、滑稽であると同時に切なくも見えてきます。いずれもストレートな引用でありながら、引用元を知らずともストーリーを追うのに支障はなく、知っていれば細かいところまでうまくやっているなとそのテクニックに感心してしまうものが続きます。

© 2020 Mediaproducción S.L.U., Gravier Productions, Inc. & Wildside S.r.L.
ご存知の方も多いかと思いますが、ウディ・アレンは長年にわたる性的なスキャンダルがあり、それがまた#Metoo運動の中で広がり深まった中でキャンセル、つまりは干されている状態で、正直ハリウッドではもう作品を撮りづらい状況になっているんですね。そんな中で、ニューヨークから遠く離れたところ、たとえばサン・セバスチャンのようなヨーロッパで映画を撮っている自分。先ほど例に出した、たとえばフランスのヌーヴェル・ヴァーグの面々と実は年齢がそう変わらないくらいだけれど憧れてきた自分の来し方行く末をパロディーを通して客観視しつつ、「自分は何者で、何を求めているのだろうか」という自分探しに戻っていく。それがアレンという映画作家の撮影当時85歳の現在地なんだろうと思います。

© 2020 Mediaproducción S.L.U., Gravier Productions, Inc. & Wildside S.r.L.
好き嫌いは別として、彼の自分反映型の主人公ものとしては近年屈指の出来栄えなのは間違いないですし、サン・セバスチャンの美しい街並みを旅行気分で味わえる観光映画としての醍醐味も存分に味わえます。古典映画への入口として、あるいは再訪もできる映画史の旅行もできてしまうものを90分強にまとめてしまう手腕には、さすがはウディ・アレンと結局痛感させられました。お見事です。
冒頭で流れるこの曲。セレクトが絶妙ですよ。映画祭へ行く。夢のような現実逃避でもある。そこで、トラブルなんて夢にくるんでしまえ、だもの。Frank Sinatraのバージョンでお送りしました。

さ〜て、次回2024年2月13日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『哀れなるものたち』。これはアカデミー賞に向かっていく中で鍵となる作品を当てることができて、自分を褒めたい気持ちですよ。怪作を発表し続けるヨルゴス・ランティモスエマ・ストーンとタッグを組んで、女性の生き方と性のあり方、そして社会のあり方を問う作品といったところでしょうか。いや、そんな簡単な言葉や定義付けにはきっと収まらないな。さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!

映画『ゴールデンカムイ』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 1月30日放送分
映画『ゴールデンカムイ』短評のDJ'sカット版です。

20世紀初頭、日露戦争での鬼気迫る戦いぶりから自他ともに不死身と呼ばれる杉元佐一。ある目的から一攫千金を狙う彼が、北海道の山中で砂金採りをしていた時、アイヌ民族から強奪されたという埋蔵金の存在を知ります。杉元とアイヌの少女アシリパ帝国陸軍第7師団の鶴見中尉、戊辰戦争で死んだとされていたはずの新選組副長土方歳三など、それぞれの思惑が入り乱れる中、埋蔵金の在処をめぐる争いの準備が進んでいきます。

ゴールデンカムイ 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

野田サトルの大ヒットマンガ実写映画化。『キングダム』シリーズや『ONE PIECE』劇場アニメの黒岩勉が脚本を担当し、MV出身で『HiGH&LOW』シリーズを手掛けてきた久保茂昭が監督を務めました。
 
杉元佐一に山崎賢人アシリパに山田杏奈、鶴見中尉に玉木宏土方歳三舘ひろしがそれぞれ扮した他、マキタスポーツ高畑充希、眞栄田郷敦、工藤阿須加なども出演しています
 
僕は先週木曜日の午後にTOHOシネマズなんばで鑑賞しました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

僕はマンガに疎いので、流行っているのは知ってましたけれども、原作は読んでないし、アニメも観ていないという、恥ずかしながらまっさらな状態で観に行きました。それはそれで良かったのかなと思います。というのも、アイヌ民族が登場するとか、明治末期の話ってことくらいはわかってましたけれども、アイヌ文化にしても、日露戦争にしても、あんなにはっきり克明に描かれているとはつゆ知らず、僕としては興味はあるけれど無知な部分でもあったんで、なんなら引き込まれて前のめりで鑑賞することになりました。

(C) 野田サトル集英社 (C) 2024 映画「ゴールデンカムイ」製作委員会
まずは旅順二百三高地における日本陸軍とロシア軍の文字通りの死闘がなかなかの迫力で、120年前の戦争の肉弾戦とかなり踏み込んだゴア描写にゾッとしつつ引き込まれてしまうんです。尺はそんなに長くないものの、戦闘後の死屍累々の絵面は強烈で、ここで生き残れば、そりゃ不死身とも言われるわという説得力がありました。そして、今度は杉元佐一の砂金採りシーン。思ったようには取れないんですね。そりゃそうだろうと思いながら、雪の降り積もった川で、そんな消沈気味の杉元を見ていたマキタスポーツ演じるガラの悪そうなおっさんが、一升瓶片手に埋蔵金の話を始めるわけです。「昔は小豆大の砂金がわんさと採れたもんだが」なんてところから始まって、その在処を示す地図が、網走刑務所に収監されていた犯罪者たちの体に入れ墨として彫られているんだけど、そいつらを集めないと全体像がつかめない。本当かよと思っていたら、そのおっさんにも入れ墨があるやないか! 杉元も当初は半信半疑でしたが、これはマジかもと思っているところへ、命の危機が訪れ、冬山を知り尽くしたアイヌ若い女アシリパに助けてもらい、ジェンダーエスニシティを超えたバディーとしての金塊を巡る冒険が始まるんですね。

(C) 野田サトル集英社 (C) 2024 映画「ゴールデンカムイ」製作委員会
アイヌ語は文字を持たないので、音をカタカナ表記したものですが、冒頭からアイヌ語の引用があるし、アシリパバイリンガルなものの、アイヌの集落を舞台にしたシーンでは、日本語は字幕表記になります。何を言っているのかさっぱりわからず、なるほどアイヌ語が日本語とは系統の違う完全に異言語であることもわかります。といった具合に、アイヌ文化を杉元が学んでいくシーンがどれも良いんですよ。特に食文化にまつわるパートはカルチャーギャップによるコミカルな演出もあいまって、劇場でも笑いが起きていました。京都珍肉博覧会というイベントを主催するひとりとして興味深かったのもあるんですが、山崎賢人演じる杉元の、狂気もあるが根っこには情に厚い利他的な男というキャラクターが、アシリパの澄んだ瞳が映す純真な心やルーツに誇りを持ちながら異文化への興味も旺盛で、つっけんどんで大人びているけれど子どもっぽい未熟なところもあるという要素と良いハーモニーを作り出していて、微笑ましいし、そうそう、新しい文化というのはこうして生まれていくんだろうなと思わせます。こうした繊細な感情やおかしみを醸す場面と入れ代わり立ち代わり登場するのが、本作の見せ場となるようなアクの強い面々が割拠するパートです。

(C) 野田サトル集英社 (C) 2024 映画「ゴールデンカムイ」製作委員会
原作は全31巻あるうちの、今回の映画化では実は3巻ぐらいまでしか描けていません。だから、はっきり言って主な登場人物の紹介という側面があるんですよね。それもあって、まぁ、どのキャラクターも濃ゆいです。もちろん、いかにも漫画的な荒唐無稽さもあるんだけれど、さすがは「ハイロー」シリーズでぶっ飛んだキャラクターと大勢の喧嘩を撮りまくってきた久保茂昭監督だけあって、ここ一番のかぶいた画面の作り方や動きも巧いし、西部劇風とか任侠映画風とか時代劇風とか、アイデアや型も豊富なので観ていて飽きません。これが原作の功績ですが、明治末期という近代国家としてまだまだ未熟だった日本のさらに北海道みたいに東京から遠く離れた場所なら「こんな描き方や設定が可能だろう」と想像力の翼を広げられるところに大風呂敷を広げた、これはピカレスクロマンなんですよね。だから、漫画的なキャラクター設定や描写も許容できる範囲に収められていると思います。実際の歴史との距離感がちょうど良いので、僕はなんなら『キングダム』よりも実写映画化として向いていると思うし、ヒットしているから続編はきっとできるんでしょうが、うまくすれば『キングダム』以上の評価を得られるのではないかと早くも今後に期待しています。アイヌ文化への興味も相当湧いたので僕も知識を蓄えながら次回作を待ちます。
ACIDMANの大木さんは、主題歌書き下ろしの依頼が来た時に興奮してすぐにアイデアを膨らませたようです。自然と共に生きるアイヌの人々の生きざまと土を忘れ欲望を追い求めてしまう人間の儚い生き様を歌にしたいなと思ったそうですよ。

さ〜て、次回2024年2月6日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『サン・セバスチャンへ、ようこそ』ウディ・アレンお得意の恋愛劇ですが、今回は国際映画祭が舞台ということもあり、映画の引用がいろいろとありそうで、さらに楽しそう。さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!

映画『笑いのカイブツ』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 1月23日放送分
映画『笑いのカイブツ』短評のDJ'sカット版です。

コミュニケーションに難ありで「人間関係不得意」を自覚するツチヤタカユキは、テレビの大喜利番組にネタを投稿することを生きがいに、バイトを転々としながら20歳前後の日々を送っています。見事認められてお笑いの劇場で作家見習いとなるものの、結局は業界内でうまく立ち回れずに、またひとり。今度はラジオ番組への投稿をきっかけに有名なハガキ職人へと成長し、憧れの芸人から東京へと誘われるのですが…

笑いのカイブツ (文春文庫)

ツチヤタカユキの同名私小説を映画化した監督は、井筒和幸中島哲也西川美和などの作品に助監督として関わり、劇映画ではこれが長編デビューとなる滝本憲吾。共同脚本は、プロデューサーとして今泉力哉監督の『愛がなんだ』などに関わってきた成宏基(そんかんぎ)や、『雑魚どもよ、大志を抱け!』の監督で現在放送中の朝ドラ『ブギウギ』の脚本も手掛けている足立紳
 
主人公のツチヤタカユキを体現したのは岡山天音。ツチヤがあこがれる芸人に仲野太賀が扮している他、母親を片岡礼子、友人を菅田将暉松本穂香が演じています。
 
僕は先週木曜日の夜にアップリンク京都で鑑賞しました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

もうね、観ていて辛かったです。それは、ツチヤタカユキという若き男の「世の中全部敵」と言わんばかりの尖り具合、「触るものみな傷つける」と言わんばかりのギザギザハートっぷりに、いくらなんでも、それでは生きづらかろう、生きにくいだろうと思ったからなんですね。若い頃というのは、多かれ少なかれ、誰でも世の中の矛盾や理不尽に苛立ったりするものだし、僕だって今思えば、成人式も行ってないし、父親の言うことにはひとつひとつ反発していたし、とりあえずうまいこと単位を積み重ねて器用に大学を出ていこうとする同級生たちに辟易していたし、就職活動もなんかこうすんなりできないし、頭下げるのも苦手だったし、結構暗いところがあったから、20代の頃なんて、何してたって、とりあえず酒飲んで鬱屈としてましたから。ツチヤの言動もわかるところがあるんです。だから、主人公に肩入れして多少の感情移入もしながら観ていたんですが、それだけに、彼の潔癖と呼びたくなるような突き抜けた笑いへのストイックさにだんだん辛くなってくるわけですよ。
 
ひとり孤独にネタを考えているうちはいいんです。テレビやラジオへの投稿はそれでできる。だけれども、いざそれを仕事にするとなると、劇場にしたって、放送局にしたって、誰かと一緒に作らないといけない。ましてや、彼はネタを考える裏方なわけで、誰かを面白くさせる立場なわけだから、「人間関係不得意」だからといって、それだけで何かが免除されるわけでも許容されるわけでもなく、構ってもらえなくなる。当然です。ツチヤの目指すのはひとりで創作に没頭する作家や画家とは違って、笑いという社会的なものなのだから。その実、実力はむやみにあるものだから、そこのみが評価されて何度か現場へ行くチャンスが彼の人生には訪れるのだけれど、その都度、一目置かれつつも、極端な無口と閉鎖性と内向性が災いして、結局はトラブルを起こしてしまう。その繰り返しから彼は何かを学べるのか。どこかに居場所を見いだせるのかというところが、破天荒な青春の行く末として描かれていきます。

(C)2023「笑いのカイブツ」製作委員会
でも、ずっと孤独というわけではありません。笑いという要素以外でも、彼を評価し、励まし、包んでくれる人はいます。母親であり、天使のようなハンバーガー屋の女性店員であり、気さくなホストであり、売れっ子漫才コンビ「ベーコンズ」の西寺です。ツチヤは彼らに感謝しつつ、心も開いているものの、結局はうまく折り合えないところに彼のろくでなしのブルーズがあるんですね。それは、菅田将暉演じる友達が言うように、地獄です。笑いはそれだけで自立してあるものではなく、特に演芸というのは世間の誰かを笑わせる喜ばせる癒やすためにあるというのに、その世間と馬が合わないという地獄。でも、その地獄で足掻くことが「生きること」なんだという言葉には泣けましたし、ツチヤにも響いていました。

(C)2023「笑いのカイブツ」製作委員会
ホアキン・フェニックスが演じたジョーカーにも似た強烈な負のエネルギーをマグマのようにグツグツさせながら、ツチヤは実は努力の人でもあります。劇場では漫才の傑作台本を片っ端から読み込んで研究し、ネタも絶えず生み出し続ける。僕は同じ足立紳脚本の『喜劇 愛妻物語』も思い起こしましたが、あの甘ったれた主人公の脚本家と違うのは、ツチヤにも甘えはあるものの、尋常ではない努力があること。ジョーカーと違うのは、温かい手を差し伸べてくれる人がいること。これらが無かったら、ツチヤはもうこの世にはいないかもしれません。結果として、彼は原作となる私小説を書き、ヒットし、こうして映画にもなりました。人によっては、この映画で自分は何を見せられているのか、てんでついていけないとなるかもしれませんが、僕はツチヤのような不器用の極みみたいな人物にも必ず居場所があるんだという作り手の強い想いが感じられて目が離せませんでした。

(C)2023「笑いのカイブツ」製作委員会
道頓堀や京橋、そして東京笹塚や放送局の雰囲気を生々しく切り取り、ストップモーションや写真を編集に折り込むかと思えば、クライマックスとなるベーコンズの漫才シーンを長回しで見せるなど構成に緩急をつけ、その後の駐車場におけるフェンスを挟んでの西寺とツチヤの会話の見せ方など、巧みな空間構成を感じさせる滝本監督の手腕はデビュー作にしてお見事です。岡山天音の演技は怪演と呼ぶにふさわしいもので彼のキャリアベスト級だし、彼に手を差し伸べる登場人物たちに名前も実力もある役者を据えたキャスティングもすばらしかったです。僕は痛々しい青春映画の良作として、劇場の暗闇の中で心をえぐられました。
 
この映画には主題歌はありませんが、なんだかブルーハーツが聞きたくなりまして、放送では『ロクデナシ』をお送りしました。

さ〜て、次回2024年1月30日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『ゴールデンカムイ』。漫画の実写化って玉石混交もいいところですが、これについては原作ファンからの再現度の高さを評価する声や、原作抜きに観ても面白いという評判も聞こえてきます。さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!

『PERFECT DAYS』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 1月16日放送分
映画『PERFECT DAYS』短評のDJ'sカット版です。

東京、渋谷にある公衆トイレの清掃員として働く平山。安アパートで一人暮らしの彼は、毎朝同じ時間に目を覚まし、淡々と、ただ熱心に、そして何よりも黙々と仕事に精を出しています。それは同じことの繰り返される毎日に見えるのですが、平山にとってはそうではなく、毎日が新しい日なのです。それが証拠に、彼の日々には、少しずつ、されど確実に違いのあることを映画は見せていきます。
 
エグゼクティブ・プロデューサーと主演は、役所広司。監督と脚本は、70年代にニュー・ジャーマン・シネマを生み出し、世界中の映画人に大きな影響を与え続けるヴィム・ヴェンダースという組み合わせです。日本が舞台ということもありますし、共同脚本には、電通のクリエイティブディレクターで作家の高崎卓馬がクレジットされています。そして、製作は柳井康治。この方はファーストリテイリング、要するにユニクロの会長である柳井正さんの息子さんで、やはり取締役常務の方です。不思議な座組ですが、この柳井さんと高崎さんの映画との関わりについては評の中で触れます。キャストは、平山を演じた役所広司の他に、柄本時生石川さゆり三浦友和田中泯なども出演しています。昨年のカンヌ国際映画祭役所広司が日本人として2人目の男優賞を受賞した他、今年のアカデミー賞国際長編映画部門ショートリストに選出されています。
 
僕は先週木曜日の昼にTOHOシネマズなんば別館で鑑賞しました。年齢層高めの印象でしたが、かなり入って、映画館は良い雰囲気でしたよ。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

あらすじの時点でそりゃ面白いだろうっていう映画もあれば、あらすじではまったく面白みが伝わらない映画もありまして、この作品は完全に後者です。主人公の平山が何をするって、本当に特別なことはないんですよね。目が覚めて、車で出かけて、仕事して、帰って、銭湯行って、一杯やって、家帰って、本を読んで眠くなったら寝る。冗談抜きに、それだけなんです。劇的なことって、ほぼないに等しいんだけど、それでも、これがまぁ見ていて目が離せないほどに面白いし、観終わってからなんだか豊かな気持ちになって、毎日を新鮮な心持ちで生きていけるんじゃないかって思えるんです。そんな魔法のようなことを達成してしまったのが、小津安二郎監督を心の師と仰ぐヴィム・ヴェンダース監督です。

©️2023 MASTER MIND Ltd.
ただ、企画そのものは、電通の高崎卓馬さんとファーストリテイリングの柳井康治さんが立てたもののようでして、実はまずトイレありきなんですね。柳井氏が渋谷区の公衆トイレを誰もが一度は使いたくなるようなひとつひとつ個性あるものに刷新するThe Tokyo Toiletというプロジェクトをあくまで個人として推し進めて結果を出したんだけれども、そこで大切なことであり課題として浮上したのが、メンテナンスの重要性だったらしいんですね。「家のトイレは毎日掃除しなくても汚れないのに、公共トイレは1日複数回清掃しても汚れてしまう」という負の行動連鎖を良い方向にシフトするにはどうすれば良いかと高崎さんに相談した時に「アートの力」が必要なんじゃないかと清掃員を主人公にした映画の企画が生まれてきて、そこにヴィム・ヴェンダースが加わっていったんですね。当のヴェンダースは、小津のスタイルを真似をすることなく、小津のスピリットや物腰を継承しています。小津の言葉に「いたずらに激しいことがドラマの面白さではなく、ドラマの本質は人格を作り上げることだと思う」というのがあります。平山というのは複数の小津映画で笠智衆が演じていた役名なんですが、ひとつひとつの行動の積み重ね、反復と差異、繰り返しと少しずつの違いの中に平山という人物がきっちり浮かび上がってきます。まるで、彫刻家がのみや彫刻刀でひとつの木の塊から彫刻を掘り上げるように。

©️2023 MASTER MIND Ltd.
そこでわかるのは、あの無口すぎる男、平山が「気づきの人」であることです。最も象徴的なのは、昼休みにご飯を食べながら、フィルムのコンパクトカメラでもって神社の木漏れ日を撮影するところ。いつもファインダーを覗かないんですよね。どれも似たりよったりに見えるけれど、ひとつとして同じではないものとしての木漏れ日。平山はそれを切り取らずにカメラで記録して、現像した後、休みの日に仕上がりを確認しては、気に入ったものを残し、気に入らないものはその場で破って捨てていく。平山というのは、世界の変化に目を凝らし耳を澄まし、あるがままに受け入れて、しかるべき選択をしていく。取捨選択をして、自分の人生や生き方をソリッドに磨き上げていく。頑固ではあるけれど、彼独自の美学がそこにあって、決して閉鎖的ではない。なんなら、家の玄関、いっつも鍵すらかけないですから(←この部分については、放送翌日、リスナーのeigadaysさんからこんなご指摘がありました。「あのアパートのドアはドアノブの真ん中にボタンがあってそれを押してドアを閉めることで自動的に鍵がかかるタイプだと思います。姪っ子が平山の帰りを待っていることからも」。確かに! あのアパートなら、そういう施錠方法の可能性が高いですね。平山が決して閉鎖的でないことには変わりませんが、これは僕の勘違いでした。ご指摘、ありがとうございました。)。トイレの書き置きを通して見知らぬ誰かと交流もすれば、いきなり登場した姪っ子も職場の出来の悪い後輩も受け入れる。なんなら、ほのかな恋心もある。ものは必要最低限だけれど、ささやかなりに素敵なチョイスの音楽や本が彼にはある。切ないことも悲しいこともあるけれど、修行僧が毎日庭の掃き掃除をするように、平山はトイレを隅から隅までピカピカにすることによって曇りなき心を取り戻す。それが証拠に、彼は毎朝、近所のおばさんが道路を箒で掃く音で目を覚まし、その音を聞きながら起き上がり、どんな天気であっても、前の日に何があっても、玄関のドアを開けながら笑みを浮かべるんです。

©️2023 MASTER MIND Ltd.
お仕事映画としても、東京観光映画としても面白いし、特に大人は平山の生き様にどこか心惹かれてしまうものがあるでしょう。いろいろと経験した末に、ものごとはもっとシンプルでいいんじゃないか。ガツガツとせずに、世界をコントロールしたり切り取ったり、ましてや何かを奪うのでなく、受け入れて感じ取って、必要最小限の自分の好きなものを軸に日々を慎ましくも楽しく暮らしていく。そんな平山の姿に憧れすら持ってしまう人は続出でしょう。平山が見る夢のように、この作品自体が都会暮らしの現代人には夢のようでもある寓話なのかも知れません。美化されてもいるし、ここに描かれなかった暗部や心の闇の部分もあるはずです。それでも、ラストショットの長回し役所広司が見せる笑い泣きは、なんだかんだとfeeling goodだという人生の肯定が画面に広がっていました。かつてヴェンダースが『不思議の国のアリス』をひねって『都会のアリス』を撮ったんですが、これはさしずめ『不思議の街の平山』かもしれません。現代の東京に生きる多様な人々とそこに絶妙に配された役者陣にもアッと驚きながら楽しんでください。また家でもいつか観ると僕は思いますが、断片的なエピソードがモザイクを織りなすタイプのこの作品は、集中して劇場で鑑賞するに限りますよ。
主人公平山は、毎朝早く、仕事道具をたっぷり積んだライトバンで出勤しながら、これまた運転席の上に積んだカセットテープの数々からその日の気分で音楽を流しています。そのチョイスがまた最高なんですが、いくつか参ったなと唸るものがありまして、これなんかはそのひとつ。金延幸子です。72年発表の伝説的アルバム『み空』から、細野晴臣のアレンジ、『青い魚』をオンエアしました。

さ〜て、次回2024年1月23日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『笑いのカイブツ』。伝説のハガキ職人ツチヤタカユキの私小説岡山天音主演で映画化したものです。テレビの投稿ネタ番組もそうですが、ラジオも当然出てきそうですよね。僕が放送しているようなFMだとリクエストの曲とセットというところもありますが、普段からリスナーの投稿に感心している僕としても、興味は尽きません。さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!